炭鉱映画で不覚にも…

「現代ヨーロッパ経済史」という授業で、炭鉱映画「ジェルミナル」の感想レポートを出せという課題が出た。その際、「ブラス!」「フル・モンティ」「リトルダンサー」という3作がサッチャー政権下のイギリス炭鉱閉鎖時代の映画で、興味があれば観てね♡ということだったのでそれらも観てみた。不覚にも泣いた。いや、「フル・モンティ」と「ブラス!」はPCでの作業の片手間に観ていたんだけど、「ブラス!」のフィルがやばすぎて泣いた。「リトルダンサー」の父親がイケメンすぎて泣いた。何を言ってるかわかんねえと思うが、今日はそういう話を書こうかと思う。

 

映画「ブラス!
ブラス! [DVD]

ブラス! [DVD]

 

泣いた。

20世紀初頭までは英国の栄華である。しかし、その繁栄に多大な貢献をした炭鉱産業も斜陽下が進み、サッチャー政権下においては炭鉱閉鎖が政策として実行されていた。1984年代の頃である。その炭鉱閉鎖にともなって、炭鉱お抱えのブラスバンドも解散の危機にあった。なぜなら、彼らは日々の生活だけで精一杯で、音楽をやる余裕など存在しないからだ。この映画で、主人公のユアン・マクレガー(「トレイン・スポッティング」でのイケメンは露と消えた)とピート・ポスルスウェイト(観たことある!と思ったら、「ユージュアル・サスペクツ」のコバヤシさん)を差し置いて、最も輝いていたのは、スティーブン・トンプキンソン演じるフィルだ。フィルは悲惨そのもの。職を失い路頭に迷うという恐怖がひたひたと人々の後ろをつけ回す現代社会においても、フィルの悲劇は他人事ではない。そのような境遇に立たされたとき、あなたが心の拠り所とするモノは何か?キリストを信じない僕にとって「神は誰も救わない!」というフィルの叫びは痛快なのだけど、この映画はそれにとって変わるべきモノを提示している。そして、それらをすべて失いかけたフィルは、人生において最も悲惨な決断をする。どうしようもない現実に打ちのめされて、周囲の友人たちは自分のことが精一杯で、どんどん堕ちていくフィルに気付かない。追い込まれていくフィルに気付かない。最近の僕は「人それぞれの表面に出ないドラマを想像すること」が大切であると思っていて(自戒を込めて)、「ブラス!」はその末路を見せてくれた。PCの画面に半分だけ表示して映画を観ていたのだけど、フィルが失いかけた「音楽」に対する想いを語るシーンに、なぜか突然グッときた。「ブラス!」は、いちどすべてを失いかけたフィルの映画である。

 

映画「リトルダンサー

リトル・ダンサー コレクターズ・エディション [DVD]

リトル・ダンサー コレクターズ・エディション [DVD]

 

泣いた。

PC画面半分の「ブラス!」で不覚にも泣いてしまったので、こちらは気合をいれて大画面のテレビで鑑賞。そして、またしても泣いてしまったのだ。映画を観て涙を流すなんてめったにないのにどうした俺。こちらもサッチャー政権下の炭鉱閉鎖時代の映画。自分たちの炭鉱を死守するべく、ストライキこそが正義の映画。主人公ビリーと父親の家族愛の映画。

親の愛。陰ながら支えてくれる人たち。僕らにはそういう存在がいるのだ、とふと気付かせてくれる。主人公のビリーは子どもで無邪気で純粋で、親の苦労も知らずにバレエ学校の面接を「帰りたい」と言ったり、ダンスの試験に手応えがないと他の子どもに八つ当たりをしたり、正直なところ自分勝手な子どもだ。ガキだった。あるいは、ビリーの才能を見抜き、彼を熱心に指導してくれたウィルキンソン先生に対して、ビリーは試験合格の報告を少し日が経ってからしているのは、正直なところまじで許せん。だけど、子どもってそういうところがある。というか、「許せん」と言っておきながら「自分はそういうことをしていないか?」という問いに対して「イエス」と胸を張って言えない。他人の好意をろくに想像せず、のらりくらりと生活していないと言えるだろうか?働き始めると親のスゴさがわかると言うけど、自分の部屋でぬくぬくと映画の感想なんぞをPCでパコパコできている理由を、しっかりと想像できているだろうか?ビリーの無邪気でどうしようもない馬鹿加減。自分もこうなんだろうという軽い自己嫌悪。ただひたすら襟を正す想いがする。「そういえば12月にあった父親の誕生日に何もプレゼントしていないなあ」とも、ふと思った。

 

父親は偉大だ。

ジェルミナル」から始まり「フル・モンティ」と「ブラス!」を観ていたから、炭鉱閉鎖に対するストライキというモノの大切さや当時の人々の切迫感を感覚として感じていた。ストライキを辞めることは、自分たちの暮らしを諦めること、人としての尊厳を失うことである、と。しかし、「リトルダンサー」においては主人公側の人間、つまり主人公の父親がストライキをやめて炭鉱行きのバスに乗り込む。主人公の父親はもともとスト派であり、スト破りに対して散々悪態をついてきた。「どの面下げて炭鉱に戻ってくるんだ?」という痛烈な嫌味も言われた。自分の信念を曲げて、嫌味にも耐えて炭鉱に向かうのは、愛する息子のためなんだ。なんだそれ。偉大すぎるだろ。そのかっこよさを映画から感じつつ、ふと自分の父親のことが頭をよぎる。きっとこうなのかもしれない、と。

 

炭鉱映画何本もを観てきたからこそ、スト破りへのハードルの高さが自分の中で上がっていて、ビリーのためにストを破ることが最高にかっこよかった。そして、その姿に泣いた。すっげー泣いた。かっこよすぎ。

 

余談だけど、「わたしはロランス」もそうだったけど、男性による女装ってなんかかっこいい。あと、友達の女の子に対するビリーの態度がイケメンすぎてやばい。女の子といい雰囲気になったら絶対に手を出す映画の男たちは彼を見習うべき。