偶然性こそ日本の美学

12月30日放映の『日曜美術館 特別編』がよかった。

青森の十和田市現代美術館を皮切りに、瀬戸内海の美術館や谷中の朝倉彫塑館などを著名人が巡る美術番組の特別編。井浦新さんが朝倉さんの塑像作品を観て、人物の骨格という表面に見えない部分に対して、朝倉さんがひとつのこだわりを持っていることに触れていた。例えば、大隈重信の塑像品であれば、骨格模型で人体の骨格を研究し、大隈重信の著書を読んで彼の思想も研究し、その上で朝倉さんは塑像を行なっていた。完成品(=表面)ではなく過程(=内面)を見せることは、松岡正剛の言う「方法」であり、松岡正剛が「21世紀は方法の時代である」と言うように、今後の社会において「過程」というモノは大事になってくるのではないか。芸術家の過程とは、すなわち人生のそのもの。芸術家がひとつの作品を作るときに必要なものは、引用であり、それはその芸術家がそれまでの人生で出会ったモノからしか選び取れないし、その出会ったモノの中には創作の原点とも呼べれる強烈な「何か」がある(と、僕は思っていて)。その「何か」はきっと大脳辺縁系に刻まれている。その「何か」を解明し、発見し、提示するような仕事がしたい。

 

あと、先週のあずまん×黒瀬さんのトークイベントで話題に上がった「日本論」についても、この番組からヒントがあったように思う。そのトークイベントでは、西洋画を原点とした日本のアートは偽物でしかなく、ほんとうの意味で日本人の心を揺さぶるモノではない、と。日本人の心を揺さぶるモノを見つけるには歴史を読み直す必要があり、そのときは「昔、日本美術は工芸品と密接な関係があった」という話になっていた。『日曜美術館 特別編』で、河井寛次郎記念館を訪れたとき、あるいは豊島美術館を訪れたとき、日本の美術は「偶然性」にこそ宿ると感じた。偶然性=自然性でもあり、それは自然との調和を重んじる日本人(あるいは東洋)ならではの美的感覚。豊島美術館もそうだったし、犬島の家プロジェクト「I邸」の作品もそうだったけど、まったく同じ瞬間の現れない(=偶然性)モノは美しかった。この場合、美しいモノとは、いつまでも見ていたいモノであるが、それは風によって表情を変える海でもあるし、風によって表情を変える木々の揺れであったり、風によって表情を変える焚き火の炎であったり。(ということは、風はひとつのヒントかもしれないし、変化もヒントかもしれない)偶然によって常に変化するモノ。それこそが「美」であり、日本人の心に昔から根付く美しさかもしれない。

自然こそ美しい!なんていう話は「ああ、ジャパニーズすごいね」で終わってしまうから、その美しさをアートの文脈にのせる必要があるなあ。その土台は、ジャクソン・ポロックあるいはフランシス・ベーコンあたりが用意してくれている気がするけど、しっかりとした理論(という名の言い訳)を少しずつ考えていきたい。

 

↑これを書いてるときに偶然読んだちきりんさんのブログ。

それでも僕は、伝えたい - Chikirinの日記

・自分だって、生まれた時から恵まれた条件の中で育ってきたわけではない。

・パソコンだって、親から買ってもらったわけではなく、自分で早朝から新聞配達をして苦労して手に入れたのだ。

・もともと寂しがりやで、一人で号泣したり、不安で眠れなくなる夜もたくさんあった。

みたいな、「苦労と努力と弱さと恵まれなさを見せなければ、伝わらないコトがある」と思われたからですよね。てか、より正確にいえば、そういうモノを見せなければ伝わらない人、最初にそういう話をしないと聞く耳を持たない人、が世の中にはいるんです。

という堀江貴文の著書『ゼロ』に関するエントリーなわけだけど、

これもひとつの「過程」なのかもしれない、と。今は「過程」の時代なのだ。

相手のことを想像できない時代。

 

少し前に意識高い系の女の子と話したとき、「会社の先輩方がつまらなくて嫌になる」と言っていた。学生時代に「すごい人たち」「尊敬する人たち」と行動していたようなのでそういうふうに思うんだろうけど、正直「人間、ナメんな」って言いたかった(言えなかったけど)まあ、自戒も込めてなんだけど、人それぞれ辛いことや悲しいことがきっとあって、それを乗り越えて、その上で今笑ってるんだよなあって。ひとりの人生の経験というモノを頭ん中からすべてふっ飛ばして、「こいつ、おもしろくねえ」とか思っちゃう人間にはなりたくないね。すごい人やモノに出会って、「すごかった!」「よかった!感動した!」と思うのはあたりまえで、そうでもない人やモノに自分から近づいて、どれだけのすごいところ・いいところを発見できるか?というのが大事なんじゃないかな。

 

 

何事も想像力なのだよ。

 

なんてことを考える年の瀬。

ぜんぜん年末感ないけど。