映画愛の話

中二病 - 伊藤計劃:第弐位相

映画「ブラッド・ダイヤモンド」にて、ディカプリオの幼顔に感動したという話。

自分の価値観で映画を観て、勝手に感動するというのは素敵なことだと思う。

そして、やっぱり文章上手いなあ、と。

人類はこれだけ文字や文章と触れ合っているのに、「いい文章」や「上手い文章」のノウハウとか実体とかはまったく議論されていないような気もする。けど、確実に「いい文章」を書く人は存在するわけだけど。好みの問題?

 

デジャブ - 伊藤計劃:第弐位相

映画を観る態度についての話。

自分が観ている映画(映画に限らず、かな?)がどのような映画であるかを、映像描写によって理解すること・気付くことの大切さ。受け身で物事を観るのではなく、しっかりと能動的に観る。

 

ギブスンの新作 - 伊藤計劃:第弐位相

メインストリーム化している美大生の話。

僕の中では、美大生はアウトローの集まりだと思っていたけど、違うのかも。

実際、美大の学祭に行ってみたとき、デザインの授業で椅子のデザインをして、その作品を展示しているブースの学生たちと話したのだけど、機能美やアフォーダンスというようなことを知っている学生はいなかった。ちょっと安心(笑)すると同時に、美大という幻想もあるのかもしれない、と感じた。計劃氏のブログでは、

人とつるむために作品を消費している彼らは、学校の休み時間に話題にされるテレビと大差ない作品への付き合い方をしている。コミュニケーションの緩衝材だ。しかし篠房氏は言った。そうじゃないだろう。俺はこれが好きだが、誰にも言えないしそもそもそのマイナーな漫画の感動を分かち合うやつもいなかった。(中略)入学当初はね、ナチ好きの女の子がいたんですけどね、「戦争のはらわた」とか「地獄に堕ちた勇者ども」とか「愛の嵐」とか一応抑えている新入生。でも最近見かけないんですよ。やっぱ彼らはクラスの中心で、彼女はクラスの隅っこで一人になる子だったんじゃないでしょうかねえ、と誰かが言う。


と。

正解かどうかも、善悪的に正しいのかもわからないけど、

僕は「これ好き!」というモノがある人の方が魅力的だと思う。

 

白紙のスクリーン - 伊藤計劃:第弐位相

映画論?

伊藤計劃の言う「映画を観た」という体験。その言葉が気になる。

なんというか、映画に対する愛を感じるというか(笑)いい映画や感動できる映画というモノもいいんだけど、ダメな映画や退屈な映画に対しても同じように(とまではいかないかもしれないが)「映画を観た」という体験をしているようで、ダメならダメなりにちゃんと観ている。「映画」という装置自体がものすごく好きなんだろうなあ、と伝わってくる。

 

トラクリ! - 伊藤計劃:第弐位相

映画「グッドナイト&グッドラック」の感想。

伊藤計劃の映画感想は(彼の思惑通りに)その映画を観たくなる。その文章には彼独特の断定・比喩・長文などの個性があるし、なんども言うようだけど上手い。そして、ひとつの映画を観る上での視点の多さ。この映画感想で言えば、映画における時間の刻み、マッカーシズムに始めるメディア、職業人としてのかっこよさ。うーん。どこかで自分の発言に自信(過信?)を持たないと、伊藤計劃ほどの文章力にならんのではないか、とも思う。

 

ぼくとあなたはちがうということ - 伊藤計劃:第弐位相

むちゃくちゃいい文章。「映画」というモノから得られるモノ。

以前もどこかで同じようなことを言ったような気もするけど、

映画に限らず、物事から何を持って帰るか?ということは、個々人の感受性とか知識とかに大きく影響していると思うし、僕は道端に咲く一輪の花に感動して泣けるような人間になりたいと思っているので、伊藤計劃の言う「道徳」がめちゃくちゃ好き。

宣伝文句で言われていることは、大体の場合映画の作り手の意思とは何の関係もありません。「ミュンヘン」を観て「テーマがよくわからなかった」などという人は、映画を観に映画館に行っているわけではないのです。代理店のコピーライターが考えた数行のキャッチコピーを、わざわざ1800円払って映画館に確認しにいっているだけなのです。