インドネシア芸術

今週からは映画を週5で観るのをやめました。代わりに、芸術作品の鑑賞時間を増やそうかと思いますです。理由としては、週5×2時間=10時間という映画の鑑賞時間を勉強(というか、読書)に回したいから。なんせ、ここにきて読書めっちゃ楽しいー!ってなってるんで。あるいは、映画を観ても当たり障りのない感想しか出てこないことが嫌すぎて、もうちょっと感性(という名の勉強量)を増やしたいな、と。

 

ってことで、美術展の感想をば。

OTA FINE ARTSでやっている「アイ・チョー・クリスティン」個展。

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Ay Tjoe ChristineToo Many Fishes2013oil on canvas170 x 200cm

 

インドネシアの芸術家だそうで、経済発展にともなって東南アジアあたりも芸術運動の気運が立ち込めてるみたいですね。個人的には、ニューヨークやヨーロッパと比べてアジアの情報をゲットするのは難しそうなので「なんだかなー」という気分。一方で、同じアジア民族として(ここに共有のモノがあるかどうかは謎だけど)似たような美意識を持っているような気がして、それはそれで有利なんじゃないか、と。

そもそも、いわゆる「ギャラリー」に足を運ぶのは、今回が初めてだったりして、少し緊張したりもしたのですが(嘘です)、美術館よりもギャラリーの方が好きだなあ、と思いました。だって、入場料が無料ですから。あるいは、荘厳で巨大な美術館の展示会に行くと、その作品数の多さのせいでいつもクタクタに疲れちゃうんですが、ギャラリーくらいの展示数ならひとつひとつ丁寧に観れるから好きですね。「アイ・チョー・クリスティン」の個展で言えば、作品数は…(たぶん)7点(6…かな?)ほど。その作品トータルの雰囲気によってアイ・チョー・クリスティンの作風が感じられたので、思考の流れとしても無理がなく心地よい時間を過ごせました。作風としては、展示情報のHPにも載っている上記のような作品が多く(さっき彼女についてちょっとだけ深堀りしたら、もう少し具体的なモチーフが描かれている絵もあったけど→OTA FINE ARTS | TOKYO > 作家紹介 > アイ・チョー・クリスティン。そして、その作品も好きだ。観たかったな)僕が大好きなジャクソン・ポロック的な感じも。ぐちゃぐちゃとしてるところと、何も描かれていない(外側の)空白との関係性というか、間というか、接点というか、そこの緊張感というか、ギャップというか、そこがすごく(昔から)好きなんですよ。なんでかは知らないけど。

だから、ギャラリーに足を踏み入れた瞬間から「あ、いいなあ」と思えたりして。じっくり作品を観ていると、「魚」の絵や「車」の絵、「虫」の絵、「人」の絵があって、そういうのがぐちゃぐちゃと、穏やかな色合いと筆跡のところもあれば、一方で混沌という言葉が似合うようなところがあって、「これがアジア的な混沌感なのか、」とありがちな感想を抱いて辟易しましたが。上記の作品もそうだけど、紅く、まるで血に染まるかのような色合いのところが目について、魚の目がまるで死んでいるかのようにぼうっと生気のない輝きだったりして。あるいは、車が蔓延る絵もあったりと、現代社会の混沌と残酷な面がキャンバスいっぱいに広がっていると感じた。「人」の絵も、どこか詐欺師的な薄っぺらい表情で笑っているようにも感じられ、そんな社会の厳しさ&人間の汚さみたいなのを、そしてそれはインドネシアという社会なわけだけど、絵画というメディアを通じて訴えかけているのだと思いました。

そう思いつつ「アジアの絵も悪くない、というか好きだなあ」とホクホク顔で家に帰ったわけです。で、家で今回の展示会について調べたら、

子供を飽かせることなく興味をひく物を与えることでコミュニケーションをはかるアイ・チョーの日常が、目につくあらゆる物を絵画表面に描きとめる行為として作品化しているのですが、ここでのペーストはコンピューター上での無機質な複製移動とは異なり、わが身の分身であるわが子との緊密で喜びに満ちた日常の置換といえます。

 って、えええーーー!!!この絵って喜びの絵なんだっっっ!!!

と、自分のセンスのなさに驚愕したわけですが。

この文章のまえに、子どもが飽きないようにモノを与える行為はまるで消費社会のよう、という文面もあるので、この上ない喜びってわけでもなさそうですが、それにしてもね…。ちょこっとインドネシアの芸術について調べてみたら、

インドネシアのアートには、(中略)喪失感とか閉塞感とか凶暴性とか、そんな高度で複雑なものではなく、もっと根源的な感情(「喜怒哀楽」のような)が描かれている、とも思うんです。そりゃ、アーティストによって表現手法はいろいろと違うけど、根底にあるのは「生に対する圧倒的な肯定感」ではないか。。。と感じるんですよね。だから、私はインドネシアのアートが好きだな。 心にぐっと迫ってきて、勇気というか、悦びを与えてくれる。

 ということを言っている方もいて(インドネシアに在住していて、実際にインドネシアの絵画を収集しているようです→悦びが感じられるインドネシアのアート : Wayako's Arts & Living ~インテリアブログ~)、根源的に東アジア諸国の人々は生に対して肯定的なのかも、と。西欧(寒い)地域においては、生きることは難しいモノだけど、森林が多く、生き物も果物などの食べ物も豊富な東アジア地域においては、生きることは難しくない。だからこそ、ヨーロッパ人は宗教に救いを求めるわけだし、東アジア人は生きることに肯定的なのかもしれない。

アイ・チョー・クリスティンの儚い感じとか、空白の多い感じとか、すごく好きだし(日本人はみんな好きなんじゃなかろうか)、ジャクソン・ポロックにおいては絵画表現がピカソまで到達してようやくオールオーバーの域に踏み込んだわけですが、東アジア地域の場合はどうなんだろう?日本であれば、西洋美術史の流れは組んでる(組んじゃってる)けど、東アジア地域はそういう歴史的流れをすっ飛ばしてこのぐちゃぐちゃに行き着いたのかな。それとも、アイ・チョー・クリスティンに限った話なのかな。このあたり調べたいけど…どうっすっべ。