ふつうの恋愛映画

僕が尊敬する映像作家が「わたしはロランス」についてレビューを書いていた。(Column - グザヴィエ・ドラン監督映画 『わたしはロランス』レビュー | QUOTATION magazine.jp)このレビューを読んで以来、ずっと観よう観ようと思っていた「わたしはロランス」を先週ようやく観ることができた。このレビューが6月なので、実に5ヶ月越しである(笑)トランスジェンダー性同一性障害)を打ち明けたメルヴィル・プポー演じるロランス・アリアと、その彼女、スザンヌ・クレマン演じるフレッド・ベレールとの愛の物語なわけだけど、まず驚くべきは監督グザヴィエ・ドランだ。2012年、23歳にして映画を3本制作し、あまつさえ処作「マイ・マザー」で、カンヌ映画祭「監督週間」部門に出品、第二作目「胸騒ぎの恋人」で、カンヌ映画祭「ある視点」部門に出品と、いわゆる天童である。

しかし、このまとめ(中森明夫氏による映画「桐島、部活やめるってよ」のレビューが素晴らしい件【ややネタバレ】 - NAVER まとめ)を読んで、いい作品の裏には知識と経験(読書体験&映画体験などなど)が必須で、そのために多くの時間を費やさねばならぬと感じていたように、天童・グザヴィエ・ドラン監督もその勉強量に関しては凄まじいモノがあるんだと思う。例えば、彼はインタビューの中で、影響を受けたものはなにか?と聞かれて、

影響を受けた写真家の名前をあげるとしたらまずはナン・ゴールディン、あと名前は思い出せない人たちが山ほど。構図に関してはマティス、タマラ・ド・レン ピッカ、シャガール、ピカソ、モネ、ボッシュ、スーラ、モンドリアン、本作の色彩コード、ブラウン時代・黄金時代・モーヴ時代といったストーリーの時代ご との色の統一性に関してはクリムト。映画の分野では、『欲望という名の電車』のマーロン・ブランドに一瞬だけど非常に厳密な形でオマージュを捧げている。

 と、ポンポンと出てくる出てくる。映画表現として引用するレベルであれば、ちょっと表面を撫でるくらいじゃおそらく通用しないし、自分のなかに深く落とし込む作業は絶対に必要で、その作業を通過した上での「わたしはロランス」であるし、「マイ・マザー」や「胸騒ぎの恋人」である、と。実際、映像美が素晴らしくよかった。下手をすれば「洒落乙(笑)」な映画になってしまうだろうけど、最初のオープニングでは予想以上に重たい音楽でその生半可なお洒落感を吹き飛ばし、色使いの上手さとファッションセンスの高さによって、どうしようもなくテンションのあがるビジュアルのかっこよさがあった。ロランスが男装から女装になるシーンなんて、むしろ女装姿がかっこよすぎて無条件に受け入れてしまいそうだった。


映画『わたしはロランス』予告編 - YouTube

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例えば、もはやこのシーンを観たいがために観に行ったとでも言えそうなくらい(無駄に)素敵なシーンだった。空の青さと舞い降りるパステルカラーの衣服、そして意識の端に冷たさを付け加える雪色と。映像だとより広がりを感じられたし、幸せそうな2人がとても印象的だった。

映像美と音楽については異論を挟む余地は個人的にないわけだけど、より言及するとしたらストーリーについて。スザンヌ・クレマン演じるフレッド・ベレールの表情が女性としてかっこよすぎるというのは置いといて(眼力やばい)、

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上記のレビューにおいて、

『わたしはロランス』という映画は正真正銘の、たったひとつだけの恋愛映画であるということだ。

 と書かれているが、この言葉によって鑑賞中抱いていた違和感がなんとなくなくなったように思う。違和感とは、ロランスはフレッドを愛していると言いながらも、自分は変わろうとしなかった(女性であることをやめない)点である。結局、「フレッドのために変わることを拒否して、彼女に変わることを強要するロランス」の構図がそこにあって(あるいは、ロランスのために安定した家庭を捨てないフレッド)、映画のなかでもチラッと言っていたけど、譲り合えない2人はどのみち長くは続かなかったんだろうなあ、と。これは拡大解釈であると思うけど、映画の中で「トランスジェンダー」の悩みと「家庭を捨てて愛する人のもとに向かうかどうか」という悩みを同列に扱っている(のかも)。フレッドの悩みは、トランスジェンダーではない人々にも訪れる悩みであって、その悩みとトランスジェンダーによって生じた悩みを同列に扱うことで、トランスジェンダーというある種のタブーをより一般化してしまったのではないか、と。正直、映画序盤は完全にトランスジェンダーの映画だったけど、フレッドが妊娠したあたりから「あれ?そっちの方向か」と、「ふつうの恋愛映画」のようなシナリオになっていた。

上記レビューを書いた彼女は「境界線を自由に動かしたい」というようなことを過去に言っていて、 だからこそ、この「わたしはロランス」は彼女にとって意味のある映画なんじゃないかなあ、とスタッフロールが流れているときにふと思った。僕にとっての「わたしはロランス」は、押井守監督が「スカイ・クロラ」で「退屈な映画」を撮ることによって、ルーティーンにハマった世界の退屈さを表現したように、「ふつうの恋愛映画」を撮ることでトランスジェンダーを一般化した素晴らしい映画である、と思うわけです。