民族浄化=エスニック・クレンジング

 

ドキュメント 戦争広告代理店 (講談社文庫)

ドキュメント 戦争広告代理店 (講談社文庫)

 

 

「戦争広告代理店」を読んだのは大学2年生の頃。楽単といわれる社会学部の授業で、それこそ「楽そうだから」という理由で履修した授業だった。でも、不純な動機で履修した授業の課題図書が「戦争広告代理店」で、これがめっちゃおもしろくて驚いたのを今でも覚えてる。ボスニア紛争におけるPR会社の暗躍と、その暗躍によってボスニア・ヘルツェゴビナは勝者となり、セルビアは悪役へと転がり落ちた、そういう実話。つまり、世界の世論をどうやって味方につけるか?というPR会社同士のバトルドキュメンタリーである。「これは現実なのか?」と疑いたくなるような陰謀論じみたストーリーと、手に汗握るPR攻防は、まるで小説のようでもあった。マイ・ベストブックの上位に食い込むであろう本作を、憧れの伊藤計劃も読んでいた。(「虐殺器官」ではサラエボに核爆弾が落ちたことになってたな…)

そして、伊藤計劃の「戦争広告代理店」への考察がめちゃくちゃおもしろい。

まずは彼のフェチズムがよーくわかる(ちょっとイカレた、でも好き!な)言葉。

どこらへんが自己言及的かというと(作者も気がついていないかも知れないけれど)、この中の一章に「民族浄化」という章がある。(中略)しかしやはり、この言葉の醸し出すものは物凄い影響力を発揮した。「民族」を「浄化」する。この響き。ぼくはほとんど、これを求めてSFを読んでいると言ってもいい。異質な世界で使用される、ぞっとする迫力を持った言葉。

 

光学迷彩」や「擬体」という言葉。ぼくはあれはすごい発明だと思う。お陳腐な「透明スーツ」を「いや、これは光学的な迷彩なんです」と士郎正宗が言い、それを簡潔に短い漢字の連なりで表現したとき、このアイテムは新しいカッコよさを得たのだし、「擬体」にしたって、サイボーグ、とかすっかり定着した言葉を避けた結果、「いや、義手や義足と同じく、体全体が『義』なんだ」というアクロバットみたいな思考の結果生まれ、それは確かにすごいインパクトを持っていた(いまやすっかり定着してオタク界隈では普遍化してしまったけれど)。

 

虐殺器官」という小説のタイトルになっている言葉も、「インパクトを持つ記号」という伊藤計劃のフェチズムを象徴しているような気がする。いわゆる「ホロコースト」は、あまりにも残酷なイメージを持ってしまったがゆえに、人々は別の言葉を生み出した。「民族浄化」。その「民族浄化」という言葉は、理性的に戦争を思考するために、「人間的に」思考するのをやめる方法だった。さらにおもしろいのは、メディアで流行る言葉は、編集しやすいかどうかだという。冷静に考えればそうだけど、キャッチーかつ短い言葉はメディアで扱い易い。だからこそ、その言葉が流行り、結果的にサラエボの勝利を呼び込んだ。

ある箇所で、ある村の人間を集め、武力で強制的に移動させ、家財を破壊し、強制収容所に入れたり殺したり、と形容するかわりにただ一言「民族浄化」と言えば、それで片付く、と言っている人物がいた。これなんてまさにニュースピークだ。その単語は繰り替えし繰り返しメディアで流通し人々が語ることで、その内実(辞書に書かれた「意味」の部分だ)を失い、ただインパクトを持つ記号としての「民族浄化」が流通していく。

 

言葉の持つ恐ろしさと、同時にそのおもしろさも。

民族浄化」のようなぞっとする迫力をもった言葉、という視点は、伊藤計劃さんらしくて僕はものすごく好き。「民族浄化」「民族浄化」「民族浄化」…