矛盾と養老孟司と押井守

「今日の俺と明日の俺は違う。情報は堅い。一方で、人間は柔らかい。しかし、人間は情報を扱う主体と思われているから、もっと堅いものだと思われている。情報化社会によって人間は堅いものだと思い込んでいる」

矛盾こそ素晴らしいのでは?二元論という前提が間違っているのでは?と最近思うんだけど。そういう意味で、人間は柔らかくて、情報が堅くて、情報化社会で人間も堅い(矛盾しない)と思われるのも納得だなあ。

 


養老孟司と押井守の対談 1/3 - YouTube

 

今、自分の中で話題の「唯脳論」の養老孟司さんと、「イノセンス」「攻殻機動隊」の監督押井守の素晴らしすぎる対談を見てる。テーマは「脳と現実」というところかな。

ゲーム・アニメは虚構・嘘。そういう前提がある。

一般的には社会的現実(多くの人が共有している社会・ふつうの世界)が、現実。でも、映像のなかで養老孟司さんが語っているように、虫が現実の人もいればお金が現実の人もいる。なら、社会的現実が現実の人もいれば、ゲーム・アニメが現実の人も当然いるよなあ。押井さん「人間的時間と社会的時間」と。そして、「人間的時間(自分の時間)を取り上げられて、社会的時間で生きなさい、と言われると誰も耐えられない」と。だから、映画「アヴァロン」では(まだ観てないけど)僕らが生きている世界とゲームの世界、どっちが現実か?ということを問題にしなかった?

人間の現実は怖い。アニメは最初から嘘だとわかっている。それほど安全なものはない。嘘であると宣言している限りにおいては、現実・ほんとうである。アニメやSFは一発目から嘘だと宣言している。

社会化された自分を生きることは苦痛でしかない。アニメやゲーム、漫画に触れるのは社会化されざるをえない現実に対する悪あがきである。人間がなぜ嘘を求めるのか?意外と僕らが生きている世界(=現実)とは根拠のないもので、アニメやゲームは根拠のないものを嘘と宣言することでそれが人々を安心させる。