山水へいざなう装置

士大夫が山水画を愛するのはかれらが公事に縛られて自然を満喫することができないからで、だとすれば山水画こそがイマジネーションの旅をおこすためのものなのだと主張しているのは、ある意味では郭煕の三遠による精密な人工自然づくりを、つまりは「山水をいざなう装置」を表現したかったということだった。

 公事っていうか、今の世の中ではすべての働く人たちだよね。

山水にいざなった結果、辿り着くのはどこ?つまり、現代では山水は何になりえるか。現代の山水へいざなう装置=メディアを表現出来たなら。それはイマジネーションとも関係があるのだろうか。

 

三遠とは、山の下より山の頂きを仰ぐようにする高遠、山の前方から山の奥後方を見通すような深遠、近くの山から連続する景色を望むような平遠をいう。(中略)ちなみに、郭煕の三遠をさらに拡張して、北宋の韓拙は別の三遠を加えた。闊遠・迷遠・幽遠である。