「理想郷」は定住型のみ

人間が風景を風景として同定できるには「定住」という観念が先行する必要がある。(中略)牧草を求めて動きまわる遊牧民族にはほとんど風景画は発達しなかった。一定の風景を記憶しつづける必要がなかったからである。via 「山水思想」

 これおもしろいな。

移動し続ける人々は、自然とか周囲の様子を固定する必要、あるいは発想がなかったという話。当時、動画というものがあればまた違ったのかな。

ついで、定住の時代から集落の時代に発達してくると、「ここ(here)」という観念と「むこう(there)」という観念が生じてくる。「ここ」に対して「むこう」ができてくる。最初は「むこう」とは他界観念に分かちがたく結びついていた。また死後の世界とも結びついていた。しかしやがて、「むこう」にはユートピックな発想が加わってくる。そこへ行けばすべてがすばらしいという「幻想のトポス」が想定できるようになったのである。そうしたユートピックな場所については、さまざまな民族によってさまざまな名称があたえられた。「アルカディア」とか「桃源郷」とか、あるいは「エルドラド」とか「シャンバラ」とか「浄土」とか。こうした幻想のトポスの構想は、一方ではその空想世界の内実に詳細なディテールを付加していき、他方では、その空想世界にすこしでも近い現実の風景をさがしもとめるという願望をつくっていく。via 「山水思想」

 もっとおもしろい。「ここ」と「むこう」ね。定住型より移動型の方が「この先に素晴らしい場所がある!(だから、移動しよう)」ってなるんじゃね?とも思ったけど、まず「ここ」と「むこう」という特定の地域・場所・位置という概念がないとダメなんかな。移動型は「最高の場所」という概念がないのかも。むしろ、移動型はいい悪いの概念ってあったのかな。