風立ちぬ2

帰りの電車に揺られながら、美しさとストーリーが完全に独立している理由をじっくりと頭ン中でぐるぐると。なんか意図があるんじゃないかって。宮崎駿は、「ストーリーなんて見んな!美しい映像だけを見ろ!」と言っているような気がしていて。それはつまりアニメーションのおもしろさ・可能性に気付いてほしいのかな、とも。地面が波打つような大地震や文字通り大粒の涙を流すキャラクターという描写はアニメーションならではというかアニメーションでしかできない(実写でも可能かもだけどやる意味)、ディズニーやエヴァンゲリオンがより現実に近くディテールまでこだわるようなアニメーションに変化している中で、ある種の印象派のような「巨大地震はこのようなインパクトで地球に出現した」というような描写をジブリを強調したかのような。同時に、あの印象派のような風景は、宮崎駿にとって世界はああいうふうに綺麗に見えているかのような。

宮崎駿は美しいものを美しい映画にした、だけなのかなーと。

そして、それは映画の主人公堀越二郎とも同じ。つまり、美しい飛行機を探求し続けた二郎の人生と、宮崎駿の人生を重ね合わせているのかも。もっと言えば、「風立ちぬ」は恋愛映画ではなく「モノづくりに人生を捧げたクリエイターの映画」なんだ。ただただ黙々とひとつの美しいモノに打ち込む人の話。そして、美しいモノを作るという目的に対して、それ以外の意味を持ち合わせていない。だから、「風立ちぬ」はストーリーに感情移入できない構成にしたのかな。「このストーリーに感動した」とか「このストーリーは(私にとって)善だ、あるいは悪だ」なんていう感想を持ち出さないために。「風立ちぬ」という映画自体に良い悪いという感想はなく、ただ「美しい」と。同時に、「風立ちぬ」の中で戦争や反戦といった描写が恐ろしく希薄なのも、堀越二郎の物語は【飛行機という「美しいもの」をつくった】という事実で完結していて、【戦争の道具として】という事実は赤の他人がくっつけたラベル(レッテル?評価?)でしかない。海軍と二郎のミーティングの光景が描かれていたけど、あのシーンの異常さは異常だった。ジブリだからスルーされそうだけど、口々に喚いている海軍たちはなんだったんだろう。「話を聞いていなかった」とミーティング後に言っていたけど、つまりどうでもいいんじゃないかな、堀越二郎にとって。美しい飛行機を作ることが目的であり、それがそのあとに人殺しの道具にされようがなにされようが関心の外。「風立ちぬ」のレビューで「1機も戻って来ませんでした」という言葉に対して「人が死んでるのに1機ってなんだ。1人も、だろ!」と怒っていた人がいたけど、二郎にとってどうでもいいんですよ、きっと。美しい飛行機が戻ってこない方がよっぽど嫌なんだ。

美しいものは美しい。そこに意味なんてないよ。

そして、美しいモノをつくるクリエイター(宮崎駿堀越二郎)にとってそれが目的で、あとのラベル貼りは外野がやんやと騒ぐのみ。宮崎駿にとって美しいモノを作った人物が堀越二郎だっただけであって、反戦とかっていう意図は案外なかったりして。そういう意味で、「風立ちぬ」は宮崎駿の集大成(遺作)っぽくもなっちゃうね。クリエイターとしてのつくることの答え?というか。