風立ちぬ

観てきた感想を少し。

「風立ちぬ」は、①すごく美しい映画で、②もの作りに人生を懸けた人の物語かな。そして、それは同時に「風立ちぬ」を作った宮崎駿の人生とも通じる。映画上映中に感じたのは、風景の描写が印象派チックでものすごく美しく、川の流れる音や虫の鳴き声もすごくきれいに聞こえた。ふだん何気なく見過ごしてる聞き逃してるモノも実はめちゃくちゃ美しいんだ!という。伊藤計劃が生前運営していた映画時評「spooktale」で、「世界に感動する視線」「テクスチャーを楽しむ」「何かの対象の肌触りを慈しむ」ということを言っているのだけど、そして僕はそれにすごく大切なモノを感じているんだけど、そういったモノに近いのかな、そういった感覚に近づけたのかな、と思ってる。

怠惰な人々は我々がそういう仕草をすることを「見ていない」から。そうしたモーションがあまりに微妙で当然で、そうした「仕草」が我々を 「人」たらしめているものの一部だということに気がついていないから。でも、「世界に感動」しようとすればそうした仕草は確実に存在しているのだし、似た ような「微妙さ」の集合体で世界は、そして日常は成立しているのです。」by伊藤計劃

それはつまり道端に咲いている草花でも感動できるか?そして、そんな人になるために芸術というモノはとても大切なんじゃないかっていう僕の好きな発想になるわけだけど。それは「風立ちぬ」の映画評論とはまた違ったベクトルなので。

どこまで話したっけ。あ、そうそう。

だから、すごく美しい映画だなあーーーと、鑑賞中に思ったり。

そして、もうひとつ上映中に感じたのは、「風立ちぬ」は物語性(っていうか、簡単にいえばストーリー)を重要視してなくね?ということ。奈保子(漢字あってる?)と二郎の恋愛物語!的な感じで言われているけど、そもそも彼らが震災で出会って再開するまで上映時間の半分くらいかかってる。ってことは、これは2人の物語じゃねえよなあ、と。最初から最後まで描かれているのは、二郎だけでしょ。彼の人生を淡々と美しい風景と一緒に写しているだけで、それ以上でも以下でもない。一種のドキュメンタリー?「風立ちぬ」の感想で「主人公が棒読みで感情移入できなかった」というのがあるけど、できないようにしているんだと思う。だって、これは二郎の人生を淡々と観る映画だから。

僕がちょっとだけ好きな映画(だけど、誰にもオススメはできない)「スカイ・クロラ」のような映画だと思ってる。「スカイ・クロラ」の感想では「退屈だった」というものが多いんだけど、その「退屈という感想」すらも映画にしている(のが、押井守のすごいところ)つまり、あれは同じ繰り返しな日常を過ごす草薙 水素の物語で、どこかで何かを変えないと永遠とループを繰り返す、いわゆるタイムリープモノの1リープを映画にしたようなもの。だから、「退屈だ」というのは、「そうだよ。だから、退屈な毎日を変えるために何かをしないと」という僕らへのメッセージ。

脱線したので戻すと、棒読み主人公を抜擢した理由を考えることが楽しいんだって。物語に入り込ませない理由があるっていうことを考えて楽しむ。ここまでは上映中に感じたこと。

上映後にじっくり考えたことはまた次回。(飽きた)