グロテスクだけどキュートなやつらが増殖中「夜行性の庭」 川野美華展

 

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川野美華 / Mika Kawano 「夜行性の庭 / Garden of nocturnal party」

 

私とあなたはまったく違う人間で、だからこそ共感はしないけど、

というかできないんだけど、それでも、不思議とあなたに心惹かれてしまう。

 

「コレ好き!」とか「カッコいい!」とか、

自分にとって心地良いモノ、“共感できる”モノはすごく大切だと思っている。

大切だし、そういうモノがすごく好き。僕はそういうモノにひとつでも多く出会いたくて、日々インターネットを徘徊し、本や雑誌を読み漁り、美術館やギャラリーにせっせと足を運んでいる。

 

そういう生活の中で、

偶然出会ったのが川野美華さんの作品です。

 

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“夜行性の庭 Ⅶ” 2014, 162 x 162cm, oil, beeswax, bead, clock hand on canvas

 

グロテスクで、

奇妙で、悪趣味。

そんな言葉がふと頭によぎるような作品で、初めて川野さんの作品を観たときは実際にそう思った。「なんだこれは…」と。とてもじゃないけど心地良い絵とは思えなくて、共感もしないしできないし、むしろ嫌悪感の方があったかもしれない。

 

悪夢の世界から這い出てきたかのような奇妙な生き物たち。思わず仰け反ってしまいそうなほどに生々しい血の色。理屈で説明できない不思議な造形は、理解を拒み、嫌悪という感情が生み出される。

 

「ナンナンデスカー…」と思いつつ、一方で、グロテスクで奇妙で不気味なモノに惹かれる人たちが一定層いるというのも知っているし、理解もしていたので、まぁそういうもんだろうと納得した。これはきっと趣味嗜好の問題だ。

 

その納得感が、見事にぶっ飛ばされるのがそのあとに観た川野美華さんの小品展だった。

それは30×30cmぐらいの小さな作品が並ぶ展覧会で、作品には奇妙な生き物たちがひとりずつブロマイドのように描かれていた。

そうしてふらりと会場のギャラリーを訪れてフラフラと作品を観て歩くうちに、ひとつの作品の前で思わず足をとめた。

というのも、生き物の頭に、ちょこんとリボンが付けられていたからだ。

 

…リボン?

 

その瞬間、

「ああ、そうか」と思い至る。

 

ベタベタと過剰に飾り立てるのではなく、

ちょこんと、ほんとにちょこんと、さりげなくなにげなく付けられた可愛らしいリボン。

それはまるで大切な妹や大事な友人に対するかのように、どこか優しく柔らかな手つきを不思議と感じさせた。作っているところを見たわけではないのでほんとに不思議なんだけど、そういうイメージが浮かんだ。

 

これはすごく単純な話で、こいつらは彼女にとってとても大切な存在であるということ。

おどろおどろしい奇怪な世界を描いているのではなく、彼女にとって大切なモノを描いているのだということ。

 

そこにあるモノは、

作品を通じて感じられることは、

こいつらに対する彼女の愛情のこもった眼差しだ。

これはとてもとても優しい絵なんだ。それでいて、なんというか、すごく不器用な絵なんだと思った。

不格好で不器用なやつらがぞろぞろと集まってきて、ワイワイと愉しげに騒いでいる。四方に血を飛び散らして爆ぜているファンキーなやつがいたのだけど、それはつまり、「いやー、うっかり飛び散っちゃってさー」「お前、またかよー」みたいな会話で笑い合うことが日常であるかのような、そういう世界。不器用なやつらの陽気な世界。

 

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"賢い乙女と愚かな乙女 Ⅱ" 2016, 162 x 162cm, oil, bead, chain on canvas
 

そう思っちゃうともうダメで(いや、ダメじゃないけど)、

気がつけば、その賑やかで愉しげなバカ騒ぎに心惹かれている自分がいた。

その表情や動きは、鳥獣戯画やお化けの絵巻に通じるような、どこかユーモラスでおもしろくて、微笑ましいというかなんというか、ニヤニヤが止まらなくなる。ちょっとした悪だくみの共犯関係のような感覚。それでいて、なんかこう歪んだ感じがふにゃふにゃした印象でなんとも可愛らしく思えてくるのである。とうとう思う、こいつらとお友達になりたいぞと。

 

そうやって「おもしろいやつらがいるぞ」とその愉快な物語に思いを馳せながら観るのがすごく楽しい。楽しいしそれにワクワクする。「いいもんだなー」としみじみ。でも、そう思って、そう思いながら観るんだけど、作品をじっくりと観初めてぼんやりと思うのは、たぶん、きっと、自由気ままに遊ぶこいつらは、この世界の残酷さを知らない。

なんとなくだけどそう思った。

 

もちろんそんなもん知らんでもいいんだけど、

じゃあ、誰が知っているのか。

というと、それが、川野美華さん…なんだと思う。

 

ゆらゆらと漂う繊細な毛や髪などの線は、そっと優しく触れるだけで血が出るんじゃないかというほど緊張感のある細さなんだけど、でもなめらかな動きは流れるようですごくきれいなんだ。あるいは、様々な生き物たちが入り乱れながらもうっとおしくない構図と人肌色の温かな余白が魅力的だったりする。

そういったひとつひとつの細かい要素にはキラリと光る意志(=意図)のようなものがあって、それはつまり、この世界がたとえ敵に回ろうともお前らを守り通すんだという強い意志であり、この世界の残酷さを一手に引き受けてそれでも踏み止まるための技術力のこと。

 

これはもう想像でしかなく、僕の勝手な楽しい楽しい妄想でしかないけど、例えば不格好で不器用なあいつらがひとりでフラフラと街中を彷徨い歩くと、現実という大波が大挙し押し寄せて一瞬で踏み潰していくんだろうと想像する。それはどうしたって悲しいし泣きたくなるから、絶対に嫌だから守りたいから、そうならないために彼女は、毅然として、日々キャンバスや絵筆と向き合っているのかもしれないなーと。

 

 

……。

…我ながら妄想がすぎる…と思いつつ、文章を書けば書くほど彼らが好きになっちゃって、なんだかもう止まんなくて…。なんていうか、その、えっと、…楽しいです。

 

まあ、

つまりですね、

長々と文章を書いて何がしたいんだ?っていうと、

川野美華さんの個展(しかも、大作展)が銀座で今まさにやっている(1/10-1/28)ので、ぜひ観てほしいってこと!※こちらは2017年執筆の記事なのでもう終わってますよ!ご注意を!( 川野美華 / Mika Kawano 「夜行性の庭 / Garden of nocturnal party」 ) 基本的に100号以上で大きい作品ばかりなので、超いいぞ!オススメだぞ!めったにないぞ!

 

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http://www.megumiogita.com/cn5/cn8/pg559.... - Megumi Ogita Gallery | Facebook

 

今週末、あるいは来週末、いやいやもちろん平日でも、時間があればぜひ!11:00~19:00です!以上!

 

「生き物には、私の中でのアトリビュートがある。ひとりひとりが私の感情の象徴です。日常を生きていて、ある物や出来事に出会ったときに生まれる感情。そういった日常の中で出会う感情にかたちを与えています。彼らは、気兼ねなく相談できたり一緒に何かを企んだりできるような、共感し合えるとても近い存在であり、夜な夜な妄想するように描いています」by川野美華

 

 

篠山紀信も自撮ラーも偽装キラキラ女子も「やべえ」「カッコいい」以外の感想がない。

 

自撮り文化界隈がおもしろい。

いい文化だね。楽しそう。インターネットって、いまさらだけどおもしろい空間ですね。

ascii.jp

ちょうど今、横浜美術館篠山紀信展が開催されているけど、コレがすごくよかった。特に、「山口百恵吉永小百合AKB48松田聖子長嶋茂雄北野武… 時代を彩ってきたスターたちを、篠山が独自の視点で切り取」った『STAR すべての人々に知られる有名人』というテーマの展示空間があって、この空間がよかった。

誰だって人間だもの、ヒトとして汚い部分や醜い部分があるわけで、例えばスポーツ選手が競技しているときの必死な表情は、申し訳ないけど、ちょっと、その、正直、笑えちゃったりするわけで。

でも、篠山紀信さんの『STAR』というシリーズはそうじゃない。徹頭徹尾、そうじゃない。絶妙なバランス感覚でもって、それぞれの被写体が持っている「カッコいい要素」あるいは「スター性」のみを抽出し、それらが過不足なく結集するそのほんの一瞬を、シャッター音と共にひとつの写真作品として切り取っている。

ある意味でそれは嘘なんだけど、フィクションなんだけど、でも、そうやって撮るとやっぱり彼ら彼女たちは「カッコいい」し、プラスのエネルギーしかないから観ていてすごく心地良い。「ああ、カッコいいモノは“カッコいい”んだなー」と至極当たり前のことをしみじみと実感する。「元気がもらえる」とかって言うと神秘主義すぎるからアレだけど、“スターというフィクション”を再現するという意味において、篠山紀信さんのその感覚の鋭さにただただ圧倒される。壁一面に並んでいる巨大な写真作品というのもまたスゴかったけど、なによりも、光の具合や被写体の表情、余白の取り方、アングル、ポージングなどなど、「どう撮ったらどういう印象になるか?」という篠山紀信さんの知識とそれを実現する技術があってこそ。

そのほか展示されているテーマとしては、『GOD 鬼籍に入られた人々』『SPECTACLE 私たちを異次元に連れ出す夢の世界』『BODY 裸の肉体―美とエロスと闘い』『ACCIDENTS 2011年3月11日 ―東日本大震災で被災された人々の肖像』があって、5つの展示空間が広がっています。ほかのもよかったよ、オススメです。

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kishin-yokohama.com

 

「だから、自撮り文化もすごいんだ!」と妙な論理を声高々に主張するつもりはコレっぽっちもないけど、ぜひとも大切にしてほしい純粋な初期衝動としては、自撮ラーも偽装キラキラ女子も、たぶんきっと同じようなモノなんじゃないかと思う。

カッコいいモノ

キラキラとしたモノ

「ああなりたい、こうなりたい」という憧れのモノ

それを手にいれるために実際に行動するしない云々は、僕としてはどっちでもいいというか、正確にいうと"どっちも良い"んだけど、まずなによりもそういう感情がすごく好き。そうして生まれた作品なんかはもう、アレ?え?もしかして最高じゃないですか!?(੭ु ˃̶͈̀ ω ˂̶͈́)੭ु⁾⁾ バンバン!って思うんですよ!ほんとにまじで尊い!素敵!

 

巷で噂の『偽装キラキラ女子』も、端的に言って、ありとあらゆる文脈を内包できる日本語の懐の深さに甘んじて「やべえ」以外の感想がないわけだけど、むちゃくちゃおもしろいと思う。最高です。

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twitter.coNHK『ねほりんぽほりん』偽装キラキラ女子回で、サンプルとして作成されたアカウント↑)

 

www.nhk.or.jp

 

自撮ラーも、キラキラ女子アカウントも、

どうしたってその根っこにあるものはドロドロとしているんだろうけど、それをまるでゲーム感覚のように前向きで戦略的に行なっているところは妙な清々しさすら感じる。なんていうか、すごく健全だなーと。ギミックとしても素晴らしいし、いやはや人間味があっていいもんです。

 

どうして現代アートは数千万円・数億円もするのか?

 

現代アートは難しい。
意味不明だ。
んでもって、理不尽にバカ高い。

そう評価されることに対して、たくさんのアートファンが「いやいや、アートっていうのはね…」と、どうにかしてその理由と魅力を伝えようと頑張っている。

かくいう僕も、そのつもりでして。

「アートって意味不明だし、全然感動できないし、しかもむちゃくちゃ高額じゃん。なんでなんですか?」みたいなところを「なるほど、そういうことか」と言わせるために今回のブログを必死で書きます。

 

 

日本人にとってのアートって、たぶん↑コレだと思うです。

「感じるままに描く」とか「あなたが感じたことが大事です」とか。

で、確かにこの通りなんだけど、それがすごく大事なんだけど、でもちょっと説明が足りない。アートがおもしろくて(個人的に)どこか切ないのは「感じたまま感じた」あとの、その先です。その先があります。この説明不足が、現代アート意味不明論に繋がっているのかもしれないと思っています。

 

 「感じるままに描く、鑑賞する」ってどういうこと?

 

まずは、「感動する」ってなに?どういうこと?というところから。
「ヒトは何かすがりつきたいモノと出会ったときに感動する」と考えているんですが、「感動する」ということは現実逃避みたいなもんで、ヒトが現実から精神的に逃れるために生み出した感情であり、それはイマココ(現実)にないからこそ想像であり、理想であり、フィクションであるということ。

 

この2人、特に翠星石たんだけは自分の理想そのものだったんです。
自分のようなゴミを人間として扱ってくれ、恋愛感情まで持ってくれるんです。
あの忌々しい学校で、主人公と机に背中合わせで座るシーンや 「一生部屋から出ずに一緒にいたい」みたいなこと言ってたシーンを見た時は、喜びと感動、決して手に入らないものを見る切なさ、恋愛感情、ありとあらゆる感情が吹き出しておかしくなりそうでした。
特にあの学校のシーンは反則です。
自分のトラウマを抉っておいて そこに理想そのものを描いたんです。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp


上記は、マイベストヤフー知恵袋で、オタクにとっての“感動”が伝わってきます。

『喜びと感動、決して手に入らないものを見る切なさ、(恋愛感情、)ありとあらゆる感情が吹き出しておかしくなりそうでした。』

喜びと切なさ。
これこそが、“感動”だと思っています。

ゴミのように扱われる学校生活(現実)↔学校の教室で翠星石たんとイチャつく(理想)

ヒトそれぞれ(オタクにもパリピにも)直面している現実がまずあって、それに対して、“感動”が生まれる。

 

 

逆にいうと、「何に感動するか?」ということは、個人個人が直面している現実によって変わる。

だから、ヒトって「好きなモノは選べない」んですよ、根本的に。残酷なことに。

“感動”を表現する芸術家って、自分の感性に正直に生きてて自由気ままなイメージだと思うけど、むしろ彼らはむちゃくちゃ不自由な人たちなんです。デザイナーや企画職の方で「芸術家みたいに0から何かを生み出すことはできないです。条件や制約がないと…」みたいなコメントしている方がいますけど、芸術家だって制約あるんやで…と(小声)で言いたい。芸術家だって別次元の人間じゃねーぞ、と。「自分が何に感動するのか?」ということを突き詰めて考えれば、条件や制約が自然と見えてくるのではないでしょうか。

 

 

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 郭熙『早春圖』

士大夫山水画を愛するのはかれらが公事に縛られて自然を満喫することができないからで、だとすれば山水画こそがイマジネーションの旅をおこすためのものなのだと主張しているのは、ある意味では郭煕の三遠による精密な人工自然づくりを、つまりは「山水をいざなう装置」を表現したかったということだった。by松岡正剛『山水思想―「負」の想像力』

 

以上が、アートを生み出す原動力である“感動”と、必要条件としての“現実”の話でした。

 

 個人的な“感動”を、人類全体の“感動”へ

 

さて、以下本題です。
「アートって意味不明だし、全然感動できないし、しかも高額じゃん。なんでなんですか?」に対しての解答です。

「アートは(少なくとも、世界で評価されるアートは)、個人的な“感動”を人類全体の“感動”にまでスケールアップして表現したモノ、プレゼンテーションしたモノ」なんです。

“感動”は、現実と密接な関係性を持って生まれるモノなのだから、“私”の感動は、その“私”が所属している時代(現実)とも繋がっている、関係性がある。つまり、「“私”が生きている時代(現実)は、〇〇な時代で、“私”はその現実に対して△△な影響を受けました。だから、“私”は☆☆に感動するし、☆☆な作品を作りました」と客観的に語ることができる。この客観性のあるなしが「感じるままに自由に描く」子どもたちの絵が評価されない理由だと思います。

「自分が何に感動するのか?」ということを突き詰めると“時代”にぶつかる。

そして、“時代”が原因だからこそ、“私”が所属している時代や国、階級、ジェンダー、社会問題を主語にして語ることができる。つまり、究極的には、主語を“私”から“人類”へとスケールアップすることができる。

人類が直面してきた現実が時代ごとにまずあって、その変化する現実に反応して人々の“感動”が生まれる。“私の感動”をスタート地点として、時代の変遷の中に生きる“私”を客観的な視点をもって表現すると、あら不思議、「私が感じるままに描いた作品」が世界でも闘えるような作品へと生まれ変わる。

 

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www.moae.jp

(前回と前々回に引き続き、↑3度目の登場。時代によって人々のすがりつくモノ=感動するモノが変わる例として秀逸すぎるので多用してる)

 

具体例として、『シュルレアリスム』という芸術運動があります。
(↓※こういうのです)

matome.naver.jp

シュルレアリスム』は、第一次世界大戦後のヨーロッパで起こりました。ご存知の通り、この大戦は大量破壊兵器や毒ガスなどが初めて実戦投入された戦争であり、死者およそ800万人という、勝っても負けても人類にとっては悲劇的な結末を迎えました。

科学をはじめとした人類の理性が、大量虐殺を可能にする殺戮兵器を生み出した。
人類の理性が私たちの暮らしをもっとよくするに違いないと信じられていた夢と希望の時代から、理性に対する絶望の時代へと移ります。

それが当時のヨーロッパ人たちが直面していた“現実”でした。

シュルレアリスム』とは、そうした“時代”に生まれた、理性に支配されない無意識の世界を追求する芸術運動です。

理性に絶望したヨーロッパ人たちは、無意識(非理性)の世界にすがりつきました。

そういう時代だったし、そういう現実があったんです。

 

sphinxis.com

例えば、球体関節人形作家のハンス・ベルメールシュルレアリストです。

(僕にとって、むちゃくちゃカッコいいヒーローのひとり。)

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“時代”としては、ナチスドイツの政権下。
理性主義が行き着いた合理主義という思想によって、同性愛者、遺伝病や精神病者などが排除されていった時代。それは残酷な“現実”です。

その現実に対して生まれたハンス・ベルメールの美学=“感動”、「何にすがりついたのか」。

それは『アナグラム』という『シュルレアリスム』の手法。

アナグラム』とは、意味のある言葉を無意味な言葉にする手法です。

当時は「健康な金髪碧眼で白色人種のドイツ民族(意味のある人種)」が正義であるとされた時代です。
7万人の障害者や難病の患者が「生きるに値しない生命(無意味な人種)」として『安楽死計画』の犠牲となった時代です。
一説によると、恋人のウニカ・チュルンは統合失調症だったとも言われています。

そんな“時代”が生み出したハンス・ベルメール球体関節人形
意味のある単語を入れ替えて無意味な言葉にする『アナグラム』を、ハンス・ベルメール球体関節人形にも応用し、意味のある各パーツを入れ替えて無意味な球体関節人形を生み出した。

ハンス・ベルメール球体関節人形を通じて、ナチスドイツの政権下という“時代”が見えてきます。

 

「アートは文脈を知らないと理解できない」と言われますが、そんな難しいことじゃないです。
つまり、アートの文脈とは歴史です。人類史です。
この地球上で唯一「感動する生き物(※ここ超重要)」である“ヒト”が積み重ねてきた歴史であり、アート作品はその各時代を反映した歴史的遺物です。

少なくとも、世界の舞台で評価されるアート作品は「感じるままに描く」だけじゃなく、「じゃあ、そもそも、その感動はどんな現実に対応して生まれたモノなのか?」までより深く掘り下げて理解して言葉にして、そうしてようやく生み出されるモノだと思います。「文脈を知らないと理解できない」の“文脈”とは、「どんな現実に対応して生まれたのか?」という問いに対する答えであり、その解説が美術史です。

つまり、人類史そのもの。

 

そして、アートは市場に流通する商品なので、その価値付けは、価格を決定し保証する根拠は、美術史における重要性ということになるのではないでしょうか。

もしも、あなたがツタンカーメンのマスクやアンネ・フランクの日記に価値がないと言うのであれば話は別ですが、その時代時代をより的確に映してきたアート作品が何千万円・何億円という価値を持ったとしてもそれは不思議ではないでしょう。

※ここまで人類というスケールで語っていますが、だいたいのアート作品は国とか民族とか、そのぐらいのスケールが多いイメージです。例えば、村上隆の作品は、オタクを主語にして、その感動(すがりついたモノ=アニメ的表現)を作品にしました(彼自身もオタクです)。オタクは戦後の日本人を象徴するひとつの人種であると定義して、アメリカに敗北した日本という現実を客観的に見つめ直して、オタクを世界史と接続することで村上隆は世界で評価されたと考えています。

 

地球上で唯一“感動する”ヒト

 

「感じるままに描く」ことは初期衝動としてすごく大切です。

コレがないとそもそもの創作行為が生まれない。

だけど、世界で評価されようと思ったら、どうしたって自分のことだけじゃダメで、世界にとって価値あるモノを提示しないといけない。「感じるままに描く」ということは評価が難しいブラックボックスであって、多くの人が違和感・不信感を覚えることは当然です。だって、何を良しとするか、何が好きで何が嫌いか、何に感動するのか?ということに優劣はありませんから。でも、プロの芸術家であるならば、世界で認められる芸術家になりたいのであれば、“自分の感動”が人類史にとってどういう立ち位置にあるのかを追求し、言葉にして、それをふまえて表現しないといけない。

そこで勝負しないといけない。感動の優劣ではなく、同じ時代・同じ国・同じ民族・同じジェンダー・同じ社会問題に直面している人々の“感動”を、読み説く努力をしないといけない。

 

鑑賞者もまた、感動に優劣はないので、「感じるまま」でいいと思う。

時代も国も民族も違う芸術家の作品すべてに感動することは難しいし無理ですし。

でも、たまにあるんですよ、おもしろいことに嬉しいことに、まったく違う時代・国・民族の芸術家による作品でもあっても、めちゃくちゃ感動しちゃうことが。それはきっとあなたにとって大切なモノ(感動、理想、憧れ、すがりつきたい何か)がどっかの時代の誰かと偶然重なったってことで、それはもう奇跡だと思って、その芸術家の作品でも作品集でもなんでも買っちゃってください。

僕としては、
「なぜ私は○○に感動するのか?」という疑問と真摯に向き合って、
自分にとって大切なモノと現代社会との関係性を丁寧に解読して言葉にして作品にしている芸術家は、ほんとうに、ほんとうにカッコいい人たちだと思っています。

もちろん、すべての人がアートを好きになることはないと思います。
でも、今のところ好きじゃなくても、例えば、世界史(こういうことがあったからこういう歴史的事件に繋がったみたいなこと)に興味があったりとか、上記の中川いさみさんの漫画のワンシーンを読んで「え、そうなんだ。おもしろいな」ってワクワクしちゃったりとかするような、知的好奇心旺盛な性格ならば是非ともオススメです。

んで、たまに(観れば観るほど、その確率は上がる感覚ですが)なんかもう、知識とか常識とかそういうモンすべてぶっ飛ばして、ただただ単純に「なんだよ、生きるの最高か!」ってテンションあがるような、理屈抜きでむちゃくちゃ自分好みなアートに出会えちゃうわけです。その瞬間がたまらんのですよ。

 

 

まあ、とりあえず、
この時代でこういう民族がいてこういう世界で!って文脈だなんだと言いつつも、初期衝動というか、ヒトの根っこにあるところ、芸術や感動というモノは、結局↑コレだと思うんです。
爪に可愛くネイルしたりとか自撮り写メをネットにアップしたりとかゴスロリファッションにハマったりだとかスローライフに憧れて鎌倉に住んだりとか仮想空間でネトゲ廃人になったりとか、別に世界の歴史とリンクしてもしなくても、どれだけ個人的な世界で完結していようとも、現状として“ない”からこそ、「ああだったらいいのに、こうだったらいいのに」という“憧れの感情”(=感動)が誰にでも生まれるわけです。

それは、切ないくせに力強くてどこかポジティブで、明日もちょっと頑張って生きようかなと(無意識にでも)思えるモノだから、僕は芸術とか感動とかフィクションとか好き嫌いとかと称される何某かのモノや感情が大切だと思うし、おもしろいと思うし、なにより僕にとっての快感原則(=ヒーロー)なんです。(でもって、より多くの人が↑この感覚の虜に、惹き込まれてしまえ!と思うわけです)

地球上で唯一、“未来”という概念を知ってしまった生き物である、ヒト。
イマココ(現在)に対して生まれるココジャナイドコカ(未来)への憧れ。
何かに憧れて何かに感動して何かにすがりついているヒトが生み出したアート作品。
各時代や国家、民族などにおける“感動”の積み重ねである美術史、いわゆる“文脈”。
ルネサンスでも戦後でも大量消費大量生産の時代でも、それぞれの時代のイマココから生まれる“現代アート”。

 

僕もまだまだハマり始めて数年ですが、むちゃくちゃおもしろいですよ、アートの世界。

 

とりあえず、「お前がアート好きなことだけは伝わった」でも超嬉しい。「なんだかちょっとおもしろそうだぞ」と思ってくれたら心が両手をあげて万歳します。

 

アートといっても、様々なクラスタが存在するので、一概には言えない(卓袱台返しの当記事全否定)ですが、(いやでもほんとに言えないんですよ…、周知の通り、マネーゲームの商品という側面もあったり※それすらもアートにするわけですが※、表現技術としてのアートを追求している人もいるし、視覚的な心地良さってどうなんだろう?って思うし…まだまだ勉強足りてないですという逃げ口上な👊)

 

以上、無類のフィクションジャンキーからでした。

 

 

 

 

来年のことを言うと鬼が笑う

 

 

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来年の事を言うと鬼が笑う 島根県の民話 <福娘童話集 きょうの日本昔話>

 

笑うってなんだろうなーと。

それはつまり、ユーモアってなんだろうなーってことでもあって、最近そう考えることが多い。

 

それというのも、

映画『この世界の片隅に』を観て、ずっと悶々としてた感覚が、

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konosekai.jp

 

アツコバルーでの『井上洋介 絵画作品展』で、なんというか、腑に落ちて、

井上洋介 絵画作品展 | Schedule - スケジュール | アツコバルー ATSUKOBAROUH arts drinks talk

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ああ、笑いって、ユーモアって、切ないなーとしみじみ。

切ない上に、ポジティブで。

そのふたつが重なり合うって、正直、どこか狂気じみてるというか、人間ってやっぱりスゴイしおもしろい。

 

映画『この世界の片隅に』がよかったのは、僕にとっておもしろかったのは、

「戦時下における人々の暮らし方や振る舞いを丁寧に描いた」からじゃなくて、

すずさんたちの暮らしというモノが結局、小さな嘘で塗り固めたモノでしかなかったから。それはヒトの最もヒトらしい部分でもあって、ヒトの、僕たち個人個人の力強さでもあるし魅力的なところでもある。

辛く悲惨な戦時下だとしても、どうにかして希望を見出して生きていかなきゃいけないんだよ。

嘘と希望は、同じ。

すずさんたちの振る舞いや暮らしの知恵のひとつひとつが、戦争の恐怖(現実)に対抗して生まれるからこそフィクションで、すずさんたちの戦時下での日常はそれらを丁寧に大事に、そして必死になって積み重ねたモノだった。

すずさんが泣き崩れる瞬間。
それは、積み重ねたフィクションが一気に崩壊し、その下に潜んでいた嘘で覆い隠していたクソッタレな現実が剥き出しになった瞬間だったわけで、そのコントラストが、ほんとに、めちゃくちゃきれいだった。だから、やっぱり僕はあのシーンが好き。

「戦争だから仕方ない」と言い聞かせてきた受け入れがたい現実が、右手や娘を失ったという現実が、戦争という理由がなくなってしまった瞬間に、重く圧し掛かってくる。

 

戦争を体験し、凄惨な赤色と塗り固めた絵具でドロドロとした世界を描く井上洋介も同様。

井上作品は、迫りくるような重々しさとどこか奇妙でコミカルな人々が魅力だと思うし、その泣きながら笑っているようなスゴさが好きなんだけど、そのふたつが同じ画面で仲良く成立しているということは、冷静に考えると矛盾しているというか、正直、ちょっと異常だと思う。井上洋介は、耐えがたい現実に直面して、それを“ユーモアで笑い飛ばす”ことでしか希望を見出せなかったのかなって。

 

 

現実と自分との間に、ユーモアを生み出すこと。

現実をユーモアで歪めるということ。

そうすることで、ちょっとだけ生きやすくなるのかな。

あるいは、そうするだけで、そうすることでしか。

 

|現実|↔|ユーモア|↔|ヒトの意識|

 

 

「来年のことを言うと鬼が笑う」

という昔話があるらしいです。

 

来年のことを言うことで、

イマココじゃない世界のことを言うことで、

鬼が笑う、みたいです。

 

 

今年よかった本ベスト3で年納め【2016年】やっと書けたVer.

 

“振り返り”

というほどのもんじゃないけど、今年は「これはいいぞ!最高だ!」とテンション上がるような本と出会うことが多かったので、“今年よかった本ベスト3”です。

あまり本を読まなかった1年だったけど、それでも僕好みな本を発見する機会が多かった印象。「あぁ…、よかった。素敵だ、最高だ。ベスト3とかで記事を書いてコレは絶対に紹介したいな、人生ベスト10とかでも堂々とランクインするんじゃねえかってぐらい素敵な本だもんな」という感じの本が今年は多かった。つまり、いい1年だった。

 

では、以下より。

それぞれいいところがあるんで、順位とかはないです。

 

 

『ジャリおじさん』大竹伸朗

www.ehonnavi.net

 まずは、コレ↑。

「オススメの絵本は?」と、

ある絵本作家さんをインタビューしたときに質問してみた。
そしたら『ジャリおじさん』って答えてくれてそれで初めて知った絵本。

sphinxis.com

 

コレはほんとに素敵な絵本で、

なんというか、完璧だった。

「何もない絵本」と絵本作家さんは評価していたけど、ほんとにその通りで。

もちろん、主人公のジャリおじさんがふと黄色い道を見つけてその道を歩き始めてその途中でいろんなヒトやモノに出会っていくっていうストーリーはあるし、絵もちゃんとストーリーにそって描かれているんだけど、それでも、「何もない」っていう感想がしっくり来る。

 

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ジャリおじさん|絵本ナビ : おおたけ しんろう みんなの声・通販

 

“絵本を読む”という行為ができるだけの必要最低限の情報はあるんだけど、つまりストーリーもイラストもあるんだけど、逆に言うと、それだけしかないという不思議な感覚。それ以上でも以下でもない、絶妙なさじ加減の絵本。

『ジャリおじさん』は、心地いいぐらいにメッセージがない絵本なんだ。

泣くも笑うも、読み手に委ねられた自由。どこまでも優しくその時々の感情に寄り添ってくれる絵本。それでいて、著者のおおたけしんろうさんの絵は、「なんじゃこりゃ?」とツッコミながらも笑ってしまうような遊び心がある。

大切なときに抱きしめることができる絵本っていうと、詩的というか、ポエムすぎるけど、メッセージは時に凶器となりえるから、どんなときでもじっくりとゆっくりと読み返せるというのはとても大事だと思う。

絵本というモノが、大人になってもふとした瞬間に立ち戻れるモノであるというならば、『ジャリおじさん』はその一冊として、宝物として、何度でも読み返してみたくなる、そんな絵本です。

 

余談だけど、著者がおおたけしんろう(=大竹伸朗)で、現代アートのむちゃくそど真ん中で活躍している人っていうのもまたおもしろいもんで。

大竹伸朗 | Take Ninagawa

 

 

『現代ゲーム全史』中川大地

現代ゲーム全史  文明の遊戯史観から

現代ゲーム全史 文明の遊戯史観から

 

 

次は、コレ↑。

まさに力作。大作。鈍器。

表紙だけを最初に見て「これは買わなきゃあかんやつだ」と思って、書店に行ったら以下の分厚さで「うひょー」って変な汗と脳内物質出たよね。

 

 

しかも、装幀は水戸部功さん。さすがの仕事。

装幀家:水戸部功 | ヒーロー見参!!

 

この本を今年よかった本に選んだ理由はもう冗談抜きで、まさにこの“分厚さ”だ。

それはつまり、
第二次世界大戦と科学技術の関係性からスタートして、各時代の代表作をその時代性と共に紹介しつつ(まず冷静に考えてコレだけでも読み応えあって素晴らしい)、しかもなんだか妙に怖いくらい読み易くて、さらにこの縦軸に対して、PCゲームからビデオゲームアーケードゲームという横軸展開が同時進行し、洋ゲー・和ゲーの比較もあるし、『インベーダー』『ゼビウス』『ドラクエ・FF』『ポケモン』『マリオ』『ストリートファイター』『モンハン』といった王道的・歴史的ゲームもあれば、『ひぐらし』とか『東方』とかの同人ゲーとかエロゲとかVRとか『怪盗ロワイヤル』をはじめとしたモバゲーとかとか(僕の青春という名の黒歴史)、おいおいそりゃどこの極地だよって感じのマイナーゲームたちが各所でゲリラ戦を繰り広げ(でもって、その極地でムチャクソな熱量が生まれていたらしいのだ、しかも極地=最前線なわけで、各時代の最前線で起きていた“事件”の熱量や臨場感が文章を通じて伝わってくる不思議。それがまたこの本の魅力でもあるしスゴイところ)、あとは編集者ならば誰もが憧れる雑誌『Whole Earth Catalog』がまさかゲームの歴史本で登場するのかよという歓喜があったりとか(しかもこれが洋ゲーと和ゲーを分かつ根本にあったりしてそこ繋がんのかい!みたいな興奮がやばいです)そういうゲーム以外の文脈も踏まえていて、(小休止)なんかもう結論、感謝しかない。これだけの情報量で2800円+税とか頭おかしいと思うし、これだけ丁寧に上手にゲームという現象をまとめ上げた書籍って過去にも未来にもたぶんないと思う。ゲーム界の聖書だよ、聖書。仏典だしコーランだよ。なんていうか、これだけスゴイ本が生まれた時代に生きていることがまずなによりもスゴイみたいな。まじで震える。冷静になればなるほど震える本。痒いところに手が届くというよりもなんであんたそんなことまで知ってんだ神さまかあんたは神さまなのかっていうかそもそも神さまはこの世に存在しないはずなのでこの情報量をすべて調べたってことなんですよねしかもそれを順序立てて関連付けて文章にしてひとつの本(というかもはやひとつの世界)にしてっていうのがまじでスゴイぞどういう頭の構造なんだコノヤロウ、ひれ伏すぞまじでこれはひれ伏してこうべを垂らしながら弾に当たらんよう頭を低くして生きるレベル(もう自分でも何言ってるかわかりませんが、いい本だってことだけ伝わって下さりやがれお願いします)、

 

遊びというものの本質のひとつは、日常の現実世界とは切り離された空間的・時間的領域やルール・法則の支配する<魔法円(マジックサークル)>を恣意的に作りだし、遊ぶ者たちがそれをひととき共有することにある。by中川大地『現代ゲーム全史』

 

あと、もうひとつ「この本いいなあ、素敵だなあ」と思った理由が、序章の6ページめで登場する上記の文章。これがもうゲーム(遊び)の定義として最高すぎるんですよ。ゲームの魅力(魔力)ってこれに尽きる。

 

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あんたも、螺旋丸、出してみねぇか?

って、「出してみてぇよ…螺旋丸…」って思うじゃないですか。

PS4の「できないことが、できるって、最高だ。」というキャッチコピーと、そのCMはホントに素晴らしいと思う

 

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僕がゲームにハマったのは結局、64のマリオとかバンカズとかのアクションゲームで、雪山とか砂漠とかなんだかよくわかんない場所とか、現実では行けないような場所(ココジャナイドコカ)を縦横無尽に駆け回って妙ちくりんな敵キャラをボッコボコに倒しながら遊べたことなんだろうと思う。

僕の快感原則として「現実に対して生まれるフィクション」が大好きなんだけど、ゲームもそれなんだよ。螺旋丸も結局、ココジャナイドコカの物語であってさ。

 

<魔法円(マジックサークル)>=フィクション。

それは、現実とは違う場所・ルール・法則で作りだす別世界。

究極的には、アニメや漫画、アートとか芸術やカルチャーっていうのは現実から逃げるように生み出されたフィクションで、ココ(現実)ジャナイドコカであって、それを別の誰かと共有して遊ぶことができるのが、ゲームというフィクションだ。読む・観る・聴くとは違う、遊ぶという要素は、特殊だからこそむちゃくちゃおもしろいよね。

現実世界のルールではヒーローになれないヤツでも、ラノベソードアート・オンライン』みたいな仮想現実ゲームだとしたら、ルールが変わるから活躍できる可能性があるわけで。例えば、自分にとって都合のいい世界を作り上げる狂ったゲームマスターとかそういうキャラってなんだかちょっと魅力的じゃないですか。

 

僕が心惹かれ続けている、フィクション。

人々を魅了する“ゲーム”というフィクション。

その“ゲーム”が積み重ねてきた、ひとつの歴史。その膨大さ。

たった100年だとしても、物質としての分厚さがその密度の濃さを物語る『現代ゲーム全史』。

それをまとめ上げた書籍。

つまり、傑作、と言うほかない最高の一冊です。

 

 

 起こらなかった世界についての物語ーアンビルト・ドローイング

起こらなかった世界についての物語―アンビルト・ドローイング

起こらなかった世界についての物語―アンビルト・ドローイング

 

 

 “アンビルト”という言葉はご存知だろうか?

例えば、2015年に話題となった新国立競技場のニュースで聞き覚えのある人もいるかもしれません。破綻となった最初の建築案を設計したのが「アンビルトの女王」の異名を持つザハ・ハディドという建築家でした。

 

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つまり、“アンビルト”は、建たなかった建築のことです。

建築という創造物は、どうしたって実現までに数年・数十年かかってしまうので、その途中で紆余曲折が起こって(景気後退で予算なくなっちゃったりとか周囲から異常な抗議を受けちゃったりとか)、建築計画自体が頓挫することがあるらしい。

話によると、建築コンペで1位を取って採用された案よりも、次点の2位の方が建築としてのアイデアがぶっ飛んでてスゴイ建築である場合があるようで。スゴすぎて実現できなかったりとか理解されなかったりとかとか。スゴすぎて、ぶっ飛んだアイデアすぎて建たないとかそういうのってなんかカッコいいですよね。

 

『起こらなかった世界についての物語』は、そういった建たなかった建築をそのドローイングと、著者で建築家の三浦丈典さんのエッセイで紹介する本です。

 

って言いたいんだけど、でも、ちょっと違った。

違いました。最初にこの本を見つけたとき、アンビルト建築についての本かな?と思って手に取ったんだけど、この本は、僕が(勝手に)想像した『建たなかった建築についての物語』じゃなかった。

そうじゃなくて、あくまでも、『起こらなかった世界についての物語』だった。

 

建築になんだか心惹かれ始めているのは、

きっと、それが建築家にとってのユートピアだからだ。

建築について考えるとき、その周辺環境や人々のライフスタイルを切り離すことは不可能で、だからこそ建築家は都市論を語ることができる。こうしてほしいというオーダーがあったとしても、建築家ひとりひとりに「建築とはこうあるべきなんじゃないか?(=人々の生活は、世界は、こうあるべきじゃないのか?)」という仮説があるはずで、諸々の条件(顧客のオーダー、周辺環境、物理法則、技術的問題、予算)と建築家のユートピア論が上手く(あるいは、努力によって)重なったとき、唯一無二の素晴らしい建築が生まれるのではないかと思う。

 

ユートピア

『現代ゲーム全史』でも語りに語った、ココジャナイドコカ。

数学や物理などの物質世界の構造を熟知し、人々のライフスタイルや居心地良さを追求し続けている、ある意味で、現実と理想という2つの知見を扱う知の巨人たる建築家。その彼らが望む「こうあるべきじゃないか」という世界。

そんな理想郷の片鱗が、ドローイングというかたちで現れる。まるで落書きのようでもあり、心の奥底に眠る童心が、彼らがずっとずっと大事にしてきた願いが、絵筆を通して無邪気に広がっているかのよう。 

 

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ポール・ルドルフ、スーパー・スタジオ、ルドルフ・シュタイナー、ハンス・ペルツィヒ、アルド・ロッシ、アタナシウス・キルヒャー、ピーター・クック、エットーレ・ソットサスアルネ・ヤコブセンなどなど。

総勢26名の建築家によるユートピアが並ぶ。

 

 

建築に興味はあれど、知識はなく。

実際、読む前はほとんど知らない建築家ばかりだったのだけど、そんな僕でも大切な一冊になりえた理由は、なによりも著者の三浦丈典さんの文章力。

 

三浦さんの文章がほんとにスゴい。やばい。

 

なんというか、すごく正直に言うと、

こういう文章を書きたい、書けるようになりたいと思えるほど、悔しいほど、どうすりゃいいのかわかんなくてむかつくほど、ホントにいい文章なんです。

 

それぞれの建築家が大切にしていた理想郷を、豊富な知識量をすべての土台にして、三浦さんの経験を織り交ぜながら、ひとつの喜劇や悲劇として物語に再構成している。

ただ単純に「こういう建築家がいて、こういうドローイングを書いて、こういう時代背景があって」ってつらつらと書くだけじゃなじみにくいと思うんだ。三浦さんはまず自分の話から入る。自分の言葉で語る。スーパースタジオの文章なんか最高で、「スーパースタジオのドローイングを見ると、こどものころ観ていたアニメのエンディング曲を思い出す」だよ、出だしが。そのあとに、スーパースタジオという建築グループやその時代背景(1966年のフィレンツェ大洪水とか)を説明し、彼らが思い描く理想世界と対極にあるポストモダン文化が世界を席巻すると語り、その受け入れがたい事実とアニメのエンディング曲が持っている危うさと不条理の感覚が繋がったところで、物語が終わる。

 

知識と感性が、絶妙に混ざり合い、その物語に共感し心惹かれつつ、それを支える知の世界がまだまだどこまでも広がっていることも実感できてすごくワクワクする。

言葉ひとつひとつのチョイスも上手くて、ドローイングから感じ取った感情を言葉巧みに表現していて、しかも、すべての言葉が物語のクライマックスを演出するかのような、無駄のなさ。

 

ホントに素敵な本だよ。

実現しているモノ・存在しているモノも好きだけど、どうしても、イマココに存在していないモノにも、強く惹かれてしまう。

どれもこれも実現しなかった世界だけど、それでも、そこにある力強さとか切実さみたいなモノに、心をグッと掴まれてそれは痛いし切ないし泣きたくもなるけど、でもどこか心地良さがあって。

 

ホントに素敵で、大切な本で、もっともっと、その文章を読みたい。

ので、ぜひとも『起こらなかった世界についての物語2』とか『3』とかにも期待したい。あわよくば、僕がそういう文章を書けるように努力します。

 

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 ↑【定期】

 

 

以上、 今年よかった本ベスト3でした。

アート、漫画、アニメ、映画、小説、陶芸、ファッション【2015年】から、さらに、絵本、ゲーム、建築にまで興味と知識の幅が広がってよかった年だった。その他、バイオと数学、仏像、アイドルにも触手を伸ばし中【2016年】。フィクション=ヒーローとして、この領域、快感原則では誰にも負けたくない。

 

とりあえず、各紹介記事を20行くらいでサラーと書くつもりが、途中でノリノリになって長くなっちゃうのやめたい。

 

『シン・ゴジラ』は僕らのサンドバックみたいなもんでさ。

 

観ました。

www.shin-godzilla.jp

 

おもしろいっす。

シン・ゴジラ』は、2016年を生きる日本人にとってのサンドバックみたいなもんだなーと。

 

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シン・ゴジラ』が「おもしろくない」理由は、これですね。

note.mu

「映画は感情移入して楽しむモノ」というスタンスで映画鑑賞している場合です。

これはスタンスの問題なので、良し悪しじゃないんだけど、「せっかくなのでこの機会に、テクスチャーを楽しむことを意識してみてくださいよ!」とお伝えしたい。僕を映画の世界へと導いた(引きずり込んだ?)SF作家の伊藤計劃も↓以下のように申しております。

 

この映画は実に様々な驚きを、感動を与えてくれます。これほど豊かなアニメ、いや映画はそうあるものではありません。私にとってこの「人狼」は間違いなく傑作です。そこには「世界に感動する視線」が間違いなく存在しているからです。昭和30年代が、映画にとって魅力的な「異世界」であることを証明する。この映画は異様とも思えるディテールへの配慮でそれを成し遂げています。デパートの屋上の遊園地。アドバルーン。低く蜘蛛の巣のように張り巡らされた電線。様々なディテールを動員してこの映画は既に失われ、それゆえにファンタジーとなった過去の空気を観客に伝えます。

ブレードランナー」が感動的なのは、決してアンドロイドが生命の意味を伝えるとかそういったことではなく、人間の肉体がひしめくストリートの膨大なディテール、セバスチャンの部屋に並ぶガラクタ、街路から出てくるスモーク、そういった小さな「部品」が凄い密度で組み合わされたその「空気」です。「人狼」は昭和30年代の街を想像して描けるありとあらゆるディテールを描写しています。

私はそういう感動の種類を「テクスチャーを楽しむ」と呼んでいます。何かの対象の「肌触り」を慈しむ感情。その微妙さ、きめ細かさ、それのもたらす「驚き」。このことは今までの「ランニングピクチャー」でも何度か言ってきたことですが、「肌触り」に感動し、涙を流してくれる人がもっと増えることを切に願い、またそれを伝えるに「人狼」が(近年まれに見る)相応しい映画であったということで、改めてお伝えしたいのです。by伊藤計劃

 

例えば、映画『スカイ・クロラ』が「退屈だった」という評価を多く受ける理由は、永遠の命を持ってしまったキルドレ(子ども)たちが感じている、ルーティーンを繰り返すだけの「退屈な日々そのもの」を映画の“演出”として組み込んでいるからなんですよ。スクリーンを前にして「退屈だ」と漏らすあなたの「退屈さ」は、空で撃墜されることでしか死ぬことを許されないキルドレたちの変わらぬ日常に対する「退屈さ」かもしれないわけで。

 

「退屈な映画」という感想は、どうしてもマイナス評価なイメージがあるけど、「退屈さも楽しむ」というか、「退屈でいい映画だった」という感想もありえるわけで、映画がもっている懐の深さみたいなモノを楽しんでみるのもアリだと思う(とSF作家の伊藤計劃から学びました!)。もちろん、手に汗握るべきアクション映画で「退屈だった」と思ったら、「金返せ!」と叫んでもいいですけど。ただ、ある映画がどういう演出をしているのか?ということを見誤って批判すると、ちょっと痛い人になります。

 

azanaerunawano5to4.hatenablog.com

話がそれましたけど、つまり『シン・ゴジラ』は、人間の葛藤とか成長とかを楽しむんじゃなくて、日本(政府)vs 怪獣という図式から生まれる一連の戦略だなんだっていうあれやこれやを楽しむための映画であって、(伊藤計劃流でいえば)そのディテール、テクスチャーを楽しめ!ということなんです。

 

っていうのが、まぁ、大方の見立て。

なんだけど、ちょっとそれだと説明不足な気がしておりまして。

怪獣とドンパチやる映画って完全に俺得映画であって、一般受けしないはずなんですよ(なぜか断定)。でも、意外とライトな層にも受けてる印象が強いし、「もう3回観た」みたいなむちゃくちゃハマってる人もいる。

 

正直、「え、なんで?」と不思議なんですよ…。

「『シン・ゴジラ』は、日本vsゴジラの完全シュミレーション映画だ!リアルだ!日本政府とゴジラが戦うときの、そのディテールが最高なんだ!!」っていう上記の大前提だけじゃ、『シン・ゴジラ』がおもしろい理由としては弱い。

 

だから、『シン・ゴジラ』の魅力はそこのディテール(だけ)じゃない。

“特撮映画としてのディテール”を追求したことが『シン・ゴジラ』の魅力なんだと思います。

 

つまり、『シン・ゴジラ』は、

日本政府が巨大不明生物と戦うときのリアルなシュミレーションを展開しつつも、ゴジラという日本人なら誰でも知っているフィクション(大嘘)を大前提として、記号的なキャラクター(小嘘)や嘘くさい演出(小嘘)を散りばめることで、虚実をごちゃ混ぜにした特撮映画という最高のエンターテイメントを今再び取り戻したのではないか。

 

なぜ、嘘を“演出”として組み込む必要があったのか?

たぶん、きっと、3.11という未曽有の大震災を経験した私たち日本人は、この現実世界の残酷さをあまりにも直視しすぎた。

 

だからこそ、「いや、これは嘘だから」というクレジット(ゴジラ)が必要だった。

 

www.youtube.com

(この動画で二人が語っていることはまさにこれ。)

 

アニメは、前提として、嘘だとみんなわかっている。だから、安心感がある。

実写で災害のオマージュである怪獣モノ(完成度の高いCG)をやると、僕らは心のどこかで3.11を思い出し、純粋にワクワクできない。僕らは怪獣に対する対策や戦略などのあれやこれやを現実的な切実感を伴って観賞することになる。

 

基本的には現実に忠実なのだろうけど、あまりにも危機感のない総理大臣や石原さとみのキャラクター、記号的すぎて素敵な対策室のメンバーたち、二回目の上陸の際に陸からその姿が確認できるほど接近されてからゴジラに気付いたところ、とかとか、『シン・ゴジラ』はわざとリアリティのない演出をしているんじゃないかと。

 

例えば、人工知能が暴走して日本人を虐殺し始めるみたいなストーリーは、あり得る未来だから現実と地続き過ぎて危機感が芽生えるし、巨大不明生物と戦うというストーリーも、現実問題としてありえないわけじゃないから、たぶんあかんのだと思います。

 

ゴジラ”じゃないとダメなんですよ、きっと。

つまり、劇中、巨大不明生物をゴジラと名付けるシーン。

あのシーンが、『シン・ゴジラ』の中でも、特に重要なシーンのひとつなんだと思う。

 

ゴジラ”という日本人なら誰でも知っているフィクションのキャラクターを登場させることで、「いや、これは嘘だから」という大前提が生まれ、その大前提のもとで、安心して、最高のエンターテイメントとして、僕らは『シン・ゴジラ』を楽しむことができているのではないか。

 

シン・ゴジラ』は、僕らのサンドバックなんだよ。

プロレスを観に行く感覚に近いのかもしれない(行ったことないけど)。

「うおー!やっちまえー!」と高揚した表情でリングに向かって叫ぶイメージ。

そこで繰り広げられる熱いバトルには、血みどろの生々しさがない。

 

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www.moae.jp

こういうことってホントにあるんだろうなーって思う。

何かをきっかけに、人々が心地良いと感じる作品が変わる。

3.11の前と後で、芸術作品に対する僕たち私たちの態度はきっと変わってる。

 

 

だから、「現実(ニッポン) vs 虚構(ゴジラ)」というキャッチフレーズがあるけど、正確には「虚構(ゴジラ) vs 現実(ニッポン)」という虚構→日本の構図が正しくて、残酷な現実を見過ぎたニッポンに対して、虚構がどこまで機能するか?という試みでもあるように思う。

 

嘘みたいなホントの話があちらこちらで発生している現代において、

「現実は小説より奇なりってほんとにそれな!」とか言われちゃう現代において、

なんだかフィクションの肩身が狭い現代において、

 

「おいおい、虚構(フィクション)をなめんなよ」と。

 

 

 

「虚構(ゴジラ) vs 現実(ニッポン)」という『シン・ゴジラ』。

 

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www.oricon.co.jp

大ヒット。

これはもう虚構の大勝利じゃろ。

 

 

「生きたいんだよ」と叫ぶアイドルがかわいい。

 

  

 

「生きたいんだよ」って言葉、めちゃくちゃ素敵。

 

ずっと死にたくて17才から9年間引きこもっていました。でもやっと最近、やっと「生きたい」と思えるようになってきました。人間がこわくて外の世界がこわくてずっと家の中で暮らしてきました。月に1回、母に車に乗せてもらって、メンタルクリニック精神安定剤をもらいに行っています。でもやっと最近、うつ病がだいぶましになってきて、少しずつ外に出られるようになってきました。ずっと引きこもって死ぬことだけを考えてきた青春でした。やっと生きたくなってきたと思ったら26才で、たのしい10代や20代前半なんてまったくなくて地獄だった。死ぬ、死ぬと思っていたのに、こんな年になってやっと生きたくなってしまった。でも、9年間引きこもってたわたしが自殺を何度も失敗しながら、母と2人でうつの自分から殺されないように自分で守ってきたこの命、絶対にむだじゃないです。こんな低スペックで挙動が気持ち悪くてどこに行ってもいじめられキモがられなじめないこんな死にたいわたしでも生きてて9年目でやっと死にたみから解放されるというこの事実が世に出ること、絶対に無駄じゃないです。さいきん1ヶ月のうち3日くらいは外に出られるようになったので、久しぶりに美容院に行って、初めて髪をピンク色に染めてもらいました。そしたら、すごく生きるのが楽になりました。引きこもってインターネットしていた期間がだてじゃないから、可愛いものを見つける才能が抜群に天才的に良いです。イソベマスヲさんというイラストレーターの作ったゆめかわなキャラクターやゆめかわなTシャツたちがだいすきで、ツイッターでマスヲさんに、そのキャラクターの絵を書いて送ったりTシャツをきて自撮りをたくさん送っていたら、「前から思ってたけど専属モデルになってほしいくらい君はいつもマスヲワールド感が有る!」と言ってもらえてほんとうに嬉しかった。わたしはこれから生きていくことにしました。わたしのこの命は、めちゃくちゃに強いです。

miss-id.jp

でも、9年間引きこもってたわたしが自殺を何度も失敗しながら、母と2人でうつの自分から殺されないように自分で守ってきたこの命、絶対にむだじゃないです。

 

um.

I THINK SO-

 

人間てほんとに不思議だ。

芸術とか文化とかって結局、「死にたくない」っていう気持ちから生まれたモノなんだと思う。

感動とは、脳が「死にたくない!生きたいんだ!!」と叫んだときに生まれるモノなんだ!なんて言ったら詩的すぎるだろうか。

 

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(最近、頻繁に引用してる漫画『プラネテス』のワンシーン)

クソッタレな今日を生きていけるのは!
明日に期待するからだろ!?by漫画『プラネテス

 

感動と感性は、近いモノがあると思うんだけど、

感動は必殺技で、感性は防御技っていうイメージ。

漫画『NARUTO』に登場する我愛羅の「砂瀑送葬」と

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「砂の盾」

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の違いって言ったら伝わるかな。

 

感性って無意識な好き嫌いというか、自分にとって心地良いモノを見つけ出す能力だと思うんですよ。でもって、人は「これ好き!」という感情を生み出してくれるモノに惹かれるし、それ欲しい!と思うものなんじゃないかと。防御のためにね。

 

 

で、黒沢さんの感性ってなんだかいいなーと。

 

可愛さの中にもちらりと見えるダークな感覚?がよいです。最高です。過剰なほどかわいいに溢れたピンクな世界。デコラティブ。でもって、なんだかフワフワとしてる感じ。共感して嬉しくなって近づいてったらすごく遠くにいるんだってことに気付くんだろうなーっていうフワフワ感。

 

現実が辛くて「死にたい」と感じれば感じるほど、

反動として、「生きたい」という感性が強くなる。

jian92fs.hatenablog.com

 

東田直樹のような、自分にとっての感動の輪郭をより丁寧に探し求める芸術家は、きっと冒険家みたいなもんで(そして、本来なら、人間ならばきっと誰だって)、過酷な旅をひとりで歩んで、ボロボロになりながらも誰も到達していない“どこか”に辿り着いて、そこにあった“何か”を引っ掴んで、帰郷して、「こんなんありましたよ」って、この世界の清濁を飲み込んで、彼らが信じるに値する言葉や物語や作品を生み出しているのだと思う。自分自身のために。

sphinxis.com

「じゃあいい宇宙船員(ふなのり)の条件ってなんなんスか?」
「必ず 生きて帰ってくることよ」by漫画『プラネテス

 

 

 

生きて、生き残って、地獄を見せてほしい。

ミスiDで、激推し中な子。