来年のことを言うと鬼が笑う
来年の事を言うと鬼が笑う 島根県の民話 <福娘童話集 きょうの日本昔話>
笑うってなんだろうなーと。
それはつまり、ユーモアってなんだろうなーってことでもあって、最近そう考えることが多い。
それというのも、
映画『この世界の片隅に』を観て、ずっと悶々としてた感覚が、
アツコバルーでの『井上洋介 絵画作品展』で、なんというか、腑に落ちて、
井上洋介 絵画作品展 | Schedule - スケジュール | アツコバルー ATSUKOBAROUH arts drinks talk
ああ、笑いって、ユーモアって、切ないなーとしみじみ。
切ない上に、ポジティブで。
そのふたつが重なり合うって、正直、どこか狂気じみてるというか、人間ってやっぱりスゴイしおもしろい。
映画『この世界の片隅に』がよかったのは、僕にとっておもしろかったのは、
「戦時下における人々の暮らし方や振る舞いを丁寧に描いた」からじゃなくて、
すずさんたちの暮らしというモノが結局、小さな嘘で塗り固めたモノでしかなかったから。それはヒトの最もヒトらしい部分でもあって、ヒトの、僕たち個人個人の力強さでもあるし魅力的なところでもある。
辛く悲惨な戦時下だとしても、どうにかして希望を見出して生きていかなきゃいけないんだよ。
嘘と希望は、同じ。
すずさんたちの振る舞いや暮らしの知恵のひとつひとつが、戦争の恐怖(現実)に対抗して生まれるからこそフィクションで、すずさんたちの戦時下での日常はそれらを丁寧に大事に、そして必死になって積み重ねたモノだった。
すずさんが泣き崩れる瞬間。
それは、積み重ねたフィクションが一気に崩壊し、その下に潜んでいた嘘で覆い隠していたクソッタレな現実が剥き出しになった瞬間だったわけで、そのコントラストが、ほんとに、めちゃくちゃきれいだった。だから、やっぱり僕はあのシーンが好き。
「戦争だから仕方ない」と言い聞かせてきた受け入れがたい現実が、右手や娘を失ったという現実が、戦争という理由がなくなってしまった瞬間に、重く圧し掛かってくる。
戦争を体験し、凄惨な赤色と塗り固めた絵具でドロドロとした世界を描く井上洋介も同様。
井上作品は、迫りくるような重々しさとどこか奇妙でコミカルな人々が魅力だと思うし、その泣きながら笑っているようなスゴさが好きなんだけど、そのふたつが同じ画面で仲良く成立しているということは、冷静に考えると矛盾しているというか、正直、ちょっと異常だと思う。井上洋介は、耐えがたい現実に直面して、それを“ユーモアで笑い飛ばす”ことでしか希望を見出せなかったのかなって。
現実と自分との間に、ユーモアを生み出すこと。
現実をユーモアで歪めるということ。
そうすることで、ちょっとだけ生きやすくなるのかな。
あるいは、そうするだけで、そうすることでしか。
|現実|↔|ユーモア|↔|ヒトの意識|
「来年のことを言うと鬼が笑う」
という昔話があるらしいです。
来年のことを言うことで、
イマココじゃない世界のことを言うことで、
鬼が笑う、みたいです。
今年よかった本ベスト3で年納め【2016年】やっと書けたVer.
“振り返り”
というほどのもんじゃないけど、今年は「これはいいぞ!最高だ!」とテンション上がるような本と出会うことが多かったので、“今年よかった本ベスト3”です。
あまり本を読まなかった1年だったけど、それでも僕好みな本を発見する機会が多かった印象。「あぁ…、よかった。素敵だ、最高だ。ベスト3とかで記事を書いてコレは絶対に紹介したいな、人生ベスト10とかでも堂々とランクインするんじゃねえかってぐらい素敵な本だもんな」という感じの本が今年は多かった。つまり、いい1年だった。
では、以下より。
それぞれいいところがあるんで、順位とかはないです。
『ジャリおじさん』大竹伸朗
まずは、コレ↑。
「オススメの絵本は?」と、
ある絵本作家さんをインタビューしたときに質問してみた。
そしたら『ジャリおじさん』って答えてくれてそれで初めて知った絵本。
コレはほんとに素敵な絵本で、
なんというか、完璧だった。
「何もない絵本」と絵本作家さんは評価していたけど、ほんとにその通りで。
もちろん、主人公のジャリおじさんがふと黄色い道を見つけてその道を歩き始めてその途中でいろんなヒトやモノに出会っていくっていうストーリーはあるし、絵もちゃんとストーリーにそって描かれているんだけど、それでも、「何もない」っていう感想がしっくり来る。
(ジャリおじさん|絵本ナビ : おおたけ しんろう みんなの声・通販)
“絵本を読む”という行為ができるだけの必要最低限の情報はあるんだけど、つまりストーリーもイラストもあるんだけど、逆に言うと、それだけしかないという不思議な感覚。それ以上でも以下でもない、絶妙なさじ加減の絵本。
『ジャリおじさん』は、心地いいぐらいにメッセージがない絵本なんだ。
泣くも笑うも、読み手に委ねられた自由。どこまでも優しくその時々の感情に寄り添ってくれる絵本。それでいて、著者のおおたけしんろうさんの絵は、「なんじゃこりゃ?」とツッコミながらも笑ってしまうような遊び心がある。
大切なときに抱きしめることができる絵本っていうと、詩的というか、ポエムすぎるけど、メッセージは時に凶器となりえるから、どんなときでもじっくりとゆっくりと読み返せるというのはとても大事だと思う。
絵本というモノが、大人になってもふとした瞬間に立ち戻れるモノであるというならば、『ジャリおじさん』はその一冊として、宝物として、何度でも読み返してみたくなる、そんな絵本です。
余談だけど、著者がおおたけしんろう(=大竹伸朗)で、現代アートのむちゃくそど真ん中で活躍している人っていうのもまたおもしろいもんで。
『現代ゲーム全史』中川大地
次は、コレ↑。
まさに力作。大作。鈍器。
表紙だけを最初に見て「これは買わなきゃあかんやつだ」と思って、書店に行ったら以下の分厚さで「うひょー」って変な汗と脳内物質出たよね。
『現代ゲーム全史』見本誌が到着しました。我ながらドン引きの厚み…。こうなったかぁ。カバー、マット地で落ち着いた感じです。改めて水戸部功さんの装幀すばらしい…
— 中川大地@「現代ゲーム全史」発売中! (@d_nak) August 18, 2016
https://t.co/JNIUFALpmx pic.twitter.com/ErXvlBZu2n
しかも、装幀は水戸部功さん。さすがの仕事。
この本を今年よかった本に選んだ理由はもう冗談抜きで、まさにこの“分厚さ”だ。
それはつまり、
第二次世界大戦と科学技術の関係性からスタートして、各時代の代表作をその時代性と共に紹介しつつ(まず冷静に考えてコレだけでも読み応えあって素晴らしい)、しかもなんだか妙に怖いくらい読み易くて、さらにこの縦軸に対して、PCゲームからビデオゲーム、アーケードゲームという横軸展開が同時進行し、洋ゲー・和ゲーの比較もあるし、『インベーダー』『ゼビウス』『ドラクエ・FF』『ポケモン』『マリオ』『ストリートファイター』『モンハン』といった王道的・歴史的ゲームもあれば、『ひぐらし』とか『東方』とかの同人ゲーとかエロゲとかVRとか『怪盗ロワイヤル』をはじめとしたモバゲーとかとか(僕の青春という名の黒歴史)、おいおいそりゃどこの極地だよって感じのマイナーゲームたちが各所でゲリラ戦を繰り広げ(でもって、その極地でムチャクソな熱量が生まれていたらしいのだ、しかも極地=最前線なわけで、各時代の最前線で起きていた“事件”の熱量や臨場感が文章を通じて伝わってくる不思議。それがまたこの本の魅力でもあるしスゴイところ)、あとは編集者ならば誰もが憧れる雑誌『Whole Earth Catalog』がまさかゲームの歴史本で登場するのかよという歓喜があったりとか(しかもこれが洋ゲーと和ゲーを分かつ根本にあったりしてそこ繋がんのかい!みたいな興奮がやばいです)そういうゲーム以外の文脈も踏まえていて、(小休止)なんかもう結論、感謝しかない。これだけの情報量で2800円+税とか頭おかしいと思うし、これだけ丁寧に上手にゲームという現象をまとめ上げた書籍って過去にも未来にもたぶんないと思う。ゲーム界の聖書だよ、聖書。仏典だしコーランだよ。なんていうか、これだけスゴイ本が生まれた時代に生きていることがまずなによりもスゴイみたいな。まじで震える。冷静になればなるほど震える本。痒いところに手が届くというよりもなんであんたそんなことまで知ってんだ神さまかあんたは神さまなのかっていうかそもそも神さまはこの世に存在しないはずなのでこの情報量をすべて調べたってことなんですよねしかもそれを順序立てて関連付けて文章にしてひとつの本(というかもはやひとつの世界)にしてっていうのがまじでスゴイぞどういう頭の構造なんだコノヤロウ、ひれ伏すぞまじでこれはひれ伏してこうべを垂らしながら弾に当たらんよう頭を低くして生きるレベル(もう自分でも何言ってるかわかりませんが、いい本だってことだけ伝わって下さりやがれお願いします)、
あと、もうひとつ「この本いいなあ、素敵だなあ」と思った理由が、序章の6ページめで登場する上記の文章。これがもうゲーム(遊び)の定義として最高すぎるんですよ。ゲームの魅力(魔力)ってこれに尽きる。
あんたも、螺旋丸、出してみねぇか?
って、「出してみてぇよ…螺旋丸…」って思うじゃないですか。
PS4の「できないことが、できるって、最高だ。」というキャッチコピーと、そのCMはホントに素晴らしいと思う
僕がゲームにハマったのは結局、64のマリオとかバンカズとかのアクションゲームで、雪山とか砂漠とかなんだかよくわかんない場所とか、現実では行けないような場所(ココジャナイドコカ)を縦横無尽に駆け回って妙ちくりんな敵キャラをボッコボコに倒しながら遊べたことなんだろうと思う。
僕の快感原則として「現実に対して生まれるフィクション」が大好きなんだけど、ゲームもそれなんだよ。螺旋丸も結局、ココジャナイドコカの物語であってさ。
<魔法円(マジックサークル)>=フィクション。
それは、現実とは違う場所・ルール・法則で作りだす別世界。
究極的には、アニメや漫画、アートとか芸術やカルチャーっていうのは現実から逃げるように生み出されたフィクションで、ココ(現実)ジャナイドコカであって、それを別の誰かと共有して遊ぶことができるのが、ゲームというフィクションだ。読む・観る・聴くとは違う、遊ぶという要素は、特殊だからこそむちゃくちゃおもしろいよね。
現実世界のルールではヒーローになれないヤツでも、ラノベ『ソードアート・オンライン』みたいな仮想現実ゲームだとしたら、ルールが変わるから活躍できる可能性があるわけで。例えば、自分にとって都合のいい世界を作り上げる狂ったゲームマスターとかそういうキャラってなんだかちょっと魅力的じゃないですか。
僕が心惹かれ続けている、フィクション。
人々を魅了する“ゲーム”というフィクション。
その“ゲーム”が積み重ねてきた、ひとつの歴史。その膨大さ。
たった100年だとしても、物質としての分厚さがその密度の濃さを物語る『現代ゲーム全史』。
それをまとめ上げた書籍。
つまり、傑作、と言うほかない最高の一冊です。
起こらなかった世界についての物語ーアンビルト・ドローイング
“アンビルト”という言葉はご存知だろうか?
例えば、2015年に話題となった新国立競技場のニュースで聞き覚えのある人もいるかもしれません。破綻となった最初の建築案を設計したのが「アンビルトの女王」の異名を持つザハ・ハディドという建築家でした。
つまり、“アンビルト”は、建たなかった建築のことです。
建築という創造物は、どうしたって実現までに数年・数十年かかってしまうので、その途中で紆余曲折が起こって(景気後退で予算なくなっちゃったりとか周囲から異常な抗議を受けちゃったりとか)、建築計画自体が頓挫することがあるらしい。
話によると、建築コンペで1位を取って採用された案よりも、次点の2位の方が建築としてのアイデアがぶっ飛んでてスゴイ建築である場合があるようで。スゴすぎて実現できなかったりとか理解されなかったりとかとか。スゴすぎて、ぶっ飛んだアイデアすぎて建たないとかそういうのってなんかカッコいいですよね。
『起こらなかった世界についての物語』は、そういった建たなかった建築をそのドローイングと、著者で建築家の三浦丈典さんのエッセイで紹介する本です。
って言いたいんだけど、でも、ちょっと違った。
違いました。最初にこの本を見つけたとき、アンビルト建築についての本かな?と思って手に取ったんだけど、この本は、僕が(勝手に)想像した『建たなかった建築についての物語』じゃなかった。
そうじゃなくて、あくまでも、『起こらなかった世界についての物語』だった。
建築になんだか心惹かれ始めているのは、
きっと、それが建築家にとってのユートピアだからだ。
建築について考えるとき、その周辺環境や人々のライフスタイルを切り離すことは不可能で、だからこそ建築家は都市論を語ることができる。こうしてほしいというオーダーがあったとしても、建築家ひとりひとりに「建築とはこうあるべきなんじゃないか?(=人々の生活は、世界は、こうあるべきじゃないのか?)」という仮説があるはずで、諸々の条件(顧客のオーダー、周辺環境、物理法則、技術的問題、予算)と建築家のユートピア論が上手く(あるいは、努力によって)重なったとき、唯一無二の素晴らしい建築が生まれるのではないかと思う。
『現代ゲーム全史』でも語りに語った、ココジャナイドコカ。
数学や物理などの物質世界の構造を熟知し、人々のライフスタイルや居心地良さを追求し続けている、ある意味で、現実と理想という2つの知見を扱う知の巨人たる建築家。その彼らが望む「こうあるべきじゃないか」という世界。
そんな理想郷の片鱗が、ドローイングというかたちで現れる。まるで落書きのようでもあり、心の奥底に眠る童心が、彼らがずっとずっと大事にしてきた願いが、絵筆を通して無邪気に広がっているかのよう。
ポール・ルドルフ、スーパー・スタジオ、ルドルフ・シュタイナー、ハンス・ペルツィヒ、アルド・ロッシ、アタナシウス・キルヒャー、ピーター・クック、エットーレ・ソットサス、アルネ・ヤコブセンなどなど。
総勢26名の建築家によるユートピアが並ぶ。
建築に興味はあれど、知識はなく。
実際、読む前はほとんど知らない建築家ばかりだったのだけど、そんな僕でも大切な一冊になりえた理由は、なによりも著者の三浦丈典さんの文章力。
三浦さんの文章がほんとにスゴい。やばい。
なんというか、すごく正直に言うと、
こういう文章を書きたい、書けるようになりたいと思えるほど、悔しいほど、どうすりゃいいのかわかんなくてむかつくほど、ホントにいい文章なんです。
それぞれの建築家が大切にしていた理想郷を、豊富な知識量をすべての土台にして、三浦さんの経験を織り交ぜながら、ひとつの喜劇や悲劇として物語に再構成している。
ただ単純に「こういう建築家がいて、こういうドローイングを書いて、こういう時代背景があって」ってつらつらと書くだけじゃなじみにくいと思うんだ。三浦さんはまず自分の話から入る。自分の言葉で語る。スーパースタジオの文章なんか最高で、「スーパースタジオのドローイングを見ると、こどものころ観ていたアニメのエンディング曲を思い出す」だよ、出だしが。そのあとに、スーパースタジオという建築グループやその時代背景(1966年のフィレンツェ大洪水とか)を説明し、彼らが思い描く理想世界と対極にあるポストモダン文化が世界を席巻すると語り、その受け入れがたい事実とアニメのエンディング曲が持っている危うさと不条理の感覚が繋がったところで、物語が終わる。
知識と感性が、絶妙に混ざり合い、その物語に共感し心惹かれつつ、それを支える知の世界がまだまだどこまでも広がっていることも実感できてすごくワクワクする。
言葉ひとつひとつのチョイスも上手くて、ドローイングから感じ取った感情を言葉巧みに表現していて、しかも、すべての言葉が物語のクライマックスを演出するかのような、無駄のなさ。
ホントに素敵な本だよ。
実現しているモノ・存在しているモノも好きだけど、どうしても、イマココに存在していないモノにも、強く惹かれてしまう。
どれもこれも実現しなかった世界だけど、それでも、そこにある力強さとか切実さみたいなモノに、心をグッと掴まれてそれは痛いし切ないし泣きたくもなるけど、でもどこか心地良さがあって。
ホントに素敵で、大切な本で、もっともっと、その文章を読みたい。
ので、ぜひとも『起こらなかった世界についての物語2』とか『3』とかにも期待したい。あわよくば、僕がそういう文章を書けるように努力します。
↑【定期】
以上、 今年よかった本ベスト3でした。
アート、漫画、アニメ、映画、小説、陶芸、ファッション【2015年】から、さらに、絵本、ゲーム、建築にまで興味と知識の幅が広がってよかった年だった。その他、バイオと数学、仏像、アイドルにも触手を伸ばし中【2016年】。フィクション=ヒーローとして、この領域、快感原則では誰にも負けたくない。
とりあえず、各紹介記事を20行くらいでサラーと書くつもりが、途中でノリノリになって長くなっちゃうのやめたい。
『シン・ゴジラ』は僕らのサンドバックみたいなもんでさ。
観ました。
おもしろいっす。
『シン・ゴジラ』は、2016年を生きる日本人にとってのサンドバックみたいなもんだなーと。
『シン・ゴジラ』が「おもしろくない」理由は、これですね。
「映画は感情移入して楽しむモノ」というスタンスで映画鑑賞している場合です。
これはスタンスの問題なので、良し悪しじゃないんだけど、「せっかくなのでこの機会に、テクスチャーを楽しむことを意識してみてくださいよ!」とお伝えしたい。僕を映画の世界へと導いた(引きずり込んだ?)SF作家の伊藤計劃も↓以下のように申しております。
「ブレードランナー」が感動的なのは、決してアンドロイドが生命の意味を伝えるとかそういったことではなく、人間の肉体がひしめくストリートの膨大なディテール、セバスチャンの部屋に並ぶガラクタ、街路から出てくるスモーク、そういった小さな「部品」が凄い密度で組み合わされたその「空気」です。「人狼」は昭和30年代の街を想像して描けるありとあらゆるディテールを描写しています。
私はそういう感動の種類を「テクスチャーを楽しむ」と呼んでいます。何かの対象の「肌触り」を慈しむ感情。その微妙さ、きめ細かさ、それのもたらす「驚き」。このことは今までの「ランニングピクチャー」でも何度か言ってきたことですが、「肌触り」に感動し、涙を流してくれる人がもっと増えることを切に願い、またそれを伝えるに「人狼」が(近年まれに見る)相応しい映画であったということで、改めてお伝えしたいのです。by伊藤計劃
例えば、映画『スカイ・クロラ』が「退屈だった」という評価を多く受ける理由は、永遠の命を持ってしまったキルドレ(子ども)たちが感じている、ルーティーンを繰り返すだけの「退屈な日々そのもの」を映画の“演出”として組み込んでいるからなんですよ。スクリーンを前にして「退屈だ」と漏らすあなたの「退屈さ」は、空で撃墜されることでしか死ぬことを許されないキルドレたちの変わらぬ日常に対する「退屈さ」かもしれないわけで。
「退屈な映画」という感想は、どうしてもマイナス評価なイメージがあるけど、「退屈さも楽しむ」というか、「退屈でいい映画だった」という感想もありえるわけで、映画がもっている懐の深さみたいなモノを楽しんでみるのもアリだと思う(とSF作家の伊藤計劃から学びました!)。もちろん、手に汗握るべきアクション映画で「退屈だった」と思ったら、「金返せ!」と叫んでもいいですけど。ただ、ある映画がどういう演出をしているのか?ということを見誤って批判すると、ちょっと痛い人になります。
azanaerunawano5to4.hatenablog.com
話がそれましたけど、つまり『シン・ゴジラ』は、人間の葛藤とか成長とかを楽しむんじゃなくて、日本(政府)vs 怪獣という図式から生まれる一連の戦略だなんだっていうあれやこれやを楽しむための映画であって、(伊藤計劃流でいえば)そのディテール、テクスチャーを楽しめ!ということなんです。
っていうのが、まぁ、大方の見立て。
なんだけど、ちょっとそれだと説明不足な気がしておりまして。
怪獣とドンパチやる映画って完全に俺得映画であって、一般受けしないはずなんですよ(なぜか断定)。でも、意外とライトな層にも受けてる印象が強いし、「もう3回観た」みたいなむちゃくちゃハマってる人もいる。
シンゴジラ、大ヒットしてくれと僕が願うのは、邦画特有の御涙頂戴、アイドル起用、家族愛、恋愛要素、テンポの悪さ、これら全てを徹底的に排除したこの映画がヒットすれば、今後の邦画がこれらの悪癖から脱却してくれるのではという一縷の希望を託しているからなのだ。
— シン・バリキオス@新刊委託中 (@Barikios) 2016年8月2日
正直、「え、なんで?」と不思議なんですよ…。
「『シン・ゴジラ』は、日本vsゴジラの完全シュミレーション映画だ!リアルだ!日本政府とゴジラが戦うときの、そのディテールが最高なんだ!!」っていう上記の大前提だけじゃ、『シン・ゴジラ』がおもしろい理由としては弱い。
だから、『シン・ゴジラ』の魅力はそこのディテール(だけ)じゃない。
“特撮映画としてのディテール”を追求したことが『シン・ゴジラ』の魅力なんだと思います。
つまり、『シン・ゴジラ』は、
日本政府が巨大不明生物と戦うときのリアルなシュミレーションを展開しつつも、ゴジラという日本人なら誰でも知っているフィクション(大嘘)を大前提として、記号的なキャラクター(小嘘)や嘘くさい演出(小嘘)を散りばめることで、虚実をごちゃ混ぜにした特撮映画という最高のエンターテイメントを今再び取り戻したのではないか。
なぜ、嘘を“演出”として組み込む必要があったのか?
たぶん、きっと、3.11という未曽有の大震災を経験した私たち日本人は、この現実世界の残酷さをあまりにも直視しすぎた。
だからこそ、「いや、これは嘘だから」というクレジット(ゴジラ)が必要だった。
(この動画で二人が語っていることはまさにこれ。)
アニメは、前提として、嘘だとみんなわかっている。だから、安心感がある。
実写で災害のオマージュである怪獣モノ(完成度の高いCG)をやると、僕らは心のどこかで3.11を思い出し、純粋にワクワクできない。僕らは怪獣に対する対策や戦略などのあれやこれやを現実的な切実感を伴って観賞することになる。
基本的には現実に忠実なのだろうけど、あまりにも危機感のない総理大臣や石原さとみのキャラクター、記号的すぎて素敵な対策室のメンバーたち、二回目の上陸の際に陸からその姿が確認できるほど接近されてからゴジラに気付いたところ、とかとか、『シン・ゴジラ』はわざとリアリティのない演出をしているんじゃないかと。
例えば、人工知能が暴走して日本人を虐殺し始めるみたいなストーリーは、あり得る未来だから現実と地続き過ぎて危機感が芽生えるし、巨大不明生物と戦うというストーリーも、現実問題としてありえないわけじゃないから、たぶんあかんのだと思います。
“ゴジラ”じゃないとダメなんですよ、きっと。
つまり、劇中、巨大不明生物をゴジラと名付けるシーン。
あのシーンが、『シン・ゴジラ』の中でも、特に重要なシーンのひとつなんだと思う。
“ゴジラ”という日本人なら誰でも知っているフィクションのキャラクターを登場させることで、「いや、これは嘘だから」という大前提が生まれ、その大前提のもとで、安心して、最高のエンターテイメントとして、僕らは『シン・ゴジラ』を楽しむことができているのではないか。
『シン・ゴジラ』は、僕らのサンドバックなんだよ。
プロレスを観に行く感覚に近いのかもしれない(行ったことないけど)。
「うおー!やっちまえー!」と高揚した表情でリングに向かって叫ぶイメージ。
そこで繰り広げられる熱いバトルには、血みどろの生々しさがない。
こういうことってホントにあるんだろうなーって思う。
何かをきっかけに、人々が心地良いと感じる作品が変わる。
3.11の前と後で、芸術作品に対する僕たち私たちの態度はきっと変わってる。
だから、「現実(ニッポン) vs 虚構(ゴジラ)」というキャッチフレーズがあるけど、正確には「虚構(ゴジラ) vs 現実(ニッポン)」という虚構→日本の構図が正しくて、残酷な現実を見過ぎたニッポンに対して、虚構がどこまで機能するか?という試みでもあるように思う。
嘘みたいなホントの話があちらこちらで発生している現代において、
「現実は小説より奇なりってほんとにそれな!」とか言われちゃう現代において、
なんだかフィクションの肩身が狭い現代において、
「おいおい、虚構(フィクション)をなめんなよ」と。
「虚構(ゴジラ) vs 現実(ニッポン)」という『シン・ゴジラ』。
大ヒット。
これはもう虚構の大勝利じゃろ。
「生きたいんだよ」と叫ぶアイドルがかわいい。
自殺したくないんだよ😢😢😢😢😢😢😢😢😢😢😢生きたいんだよ😢😢😢😢😢😢😢😢😢😢
— 黒沢 えりいぴよ (@KAWAIISHINU) July 15, 2016
「生きたいんだよ」って言葉、めちゃくちゃ素敵。
「でも、9年間引きこもってたわたしが自殺を何度も失敗しながら、母と2人でうつの自分から殺されないように自分で守ってきたこの命、絶対にむだじゃないです。」
um.
I THINK SO-
人間てほんとに不思議だ。
芸術とか文化とかって結局、「死にたくない」っていう気持ちから生まれたモノなんだと思う。
感動とは、脳が「死にたくない!生きたいんだ!!」と叫んだときに生まれるモノなんだ!なんて言ったら詩的すぎるだろうか。
(最近、頻繁に引用してる漫画『プラネテス』のワンシーン)
明日に期待するからだろ!?by漫画『プラネテス』
感動と感性は、近いモノがあると思うんだけど、
感動は必殺技で、感性は防御技っていうイメージ。
「砂の盾」
の違いって言ったら伝わるかな。
感性って無意識な好き嫌いというか、自分にとって心地良いモノを見つけ出す能力だと思うんですよ。でもって、人は「これ好き!」という感情を生み出してくれるモノに惹かれるし、それ欲しい!と思うものなんじゃないかと。防御のためにね。
なんだこの地獄は🐰
— 黒沢 えりいぴよ (@KAWAIISHINU) July 26, 2016
🎵劇的JOY!ビフォーアフター/大森靖子#ミスiD2017 #ミスiD pic.twitter.com/9DUKBqv6Uh
で、黒沢さんの感性ってなんだかいいなーと。
私の部屋🐰やっとこの地獄度の高すぎる部屋の惨状を公開する機会が来た🐰 https://t.co/FKzdK5bWcS #ミスiD #ミスiD2017 #CHEERZ pic.twitter.com/0t3Gx0r3U7
— 黒沢 えりいぴよ (@KAWAIISHINU) July 16, 2016
可愛さの中にもちらりと見えるダークな感覚?がよいです。最高です。過剰なほどかわいいに溢れたピンクな世界。デコラティブ。でもって、なんだかフワフワとしてる感じ。共感して嬉しくなって近づいてったらすごく遠くにいるんだってことに気付くんだろうなーっていうフワフワ感。
現実が辛くて「死にたい」と感じれば感じるほど、
反動として、「生きたい」という感性が強くなる。
「必ず 生きて帰ってくることよ」by漫画『プラネテス』
見てきた地獄の色をみせてやるよ#ミスiD2017 pic.twitter.com/KlcUaWW3e5
— 黒沢 えりいぴよ (@KAWAIISHINU) July 15, 2016
生きて、生き残って、地獄を見せてほしい。
ミスiDで、激推し中な子。
僕らは、生きるためなら悪魔にだってすがりつく。
義足ってかっこいいと思うんですよ。
近年、義足というジャンルにデザインが導入され始めているという外見的な理由もさることながら、「“誰か”にとっての希望となり、しかも、実際的に、物理的に、“誰か”の人生を支えることができるところ」がめちゃくちゃかっこいいことに気が付いた。
「人間は“すがりつきたい何か”に出会ったときに、感動する」という僕の仮説が(またしても)土台にあるわけですが。
荒川修作の言葉で「ああ、そうか。たしかに、そうだな」って思って、ずっとその言葉を引きずってる。つまり、小説や漫画、アニメなどのフィクションは、ダ・ヴィンチの絵だ。フィクションで感動して、「よっしゃー、頑張るぞー、生きるぞー」って思っても、残酷な現実(=ノンフィクション)がなくなるわけじゃないし、どうしたって生身の身体で乗り越えていくしかない。これはすごく当たり前のことだし、フィクションはもちろん大好きだし、全力肯定するんだけど。
youtu.be(昨期、鬼リピしまくったPV。フィクション最高!)
ところが、義足は、
「自由に歩けるようになりたい」という希望を、物理的に叶えちゃうすげーアイテムなわけです。ノンフィクションなんですよ。
足を失って「もう二度と歩けないんだ、普通の生活に戻れないんだ…」って絶望の淵にいる“誰か”に対して、「いつかきっと歩けるようになるよ」ってすがりつけるような希望を与えて、かつ、「はい、これ」って(まるでドラえもんみたいに)ほんとうに歩けるようにしちゃうむちゃくちゃすごくてカッコいいアイテム、それが義足です。
なので、
「カッコいい義足ないかな~♪」ってノリノリでネットサーフィンしてたら、
こんな傲慢で残酷で、だけど切なくて、“憧れ”が持っている怖さと狂おしいほどの美しさを体現しているPVは他に見たことない。Viktoria Modesta - Prototype - YouTube https://t.co/vAVxuLKz4x
— Jian92fs (@Jian92fs) 2016年3月20日
↑このPVと出会いました。
義足のポップスター・VIKTORIA MODESTAの『Prototype』というPV。
『Prototype』、最高です。
完璧って言ってもいいです。
何が完璧かっていうと、
結局、「何かに感動する瞬間」ってまさにコレなんです。
この女の子も、
このオッサン(?)も、
この少年も、
VIKTORIA MODESTAというヒーローに憧れている(すがりついている)わけです。
たぶん、きっと、彼ら・彼女らは、耐えがたいほどに辛い現実に直面していて、だからこそ、VIKTORIA MODESTAにすがりついた。VIKTORIA MODESTAを信じた。
僕が“感動”と呼んでいる心の動きは、まさにコレ。この感覚。
“感動”の度合いは、もちろん大小あるけれど、根っこの部分はコレだと思ってる。
僕だけじゃなくて、人類すべてにとって(という仮説だけど)
何かに感動するということ。
何かに憧れるということ。
何かを信じるということ。
これって、むちゃくちゃすごい力なんだよ。
(漫画『プラネテス』のワンシーン)
明日に期待するからだろ!?by漫画『プラネテス』
僕たちがクソッタレな毎日を生きていけるのは、心のどこかで明日に期待しているからなのではないか。人それぞれ生き続ける根拠が何かしらあるのではないか。昔は、その大役を宗教が担っていたけど、現代はきっと多様化しているのではないか。
そんな仮説を日々ああでもないこうでもないと考えています。
人それぞれ心の中にヒーローがいて、だからこそ、毎日を前向きに生きていけるんじゃないかって、そうだといいなって、妄想したりもします。
この『prototype』が秀逸なのは、
その「ヒーロー=すがりつきたいモノ=芸術家」という図式をこれまたわかりやすく(僕が勝手に解釈しやすく)物語にしているということ。
そして、何かにすがりつくということの怖さも、同時に、伝えている。
足を自ら切断することで、義足のヒーロー・VIKTORIA MODESTAのように強くなれるかもしれない!と信じて、実行した男のピースサイン。悲劇だけど、悲劇じゃない。いや悲劇だ。だけど、ああなりたいこうなりたい、ああかっこいいなー素敵だなーという憧れの感情を僕は知っているからこそ、ぐちゃぐちゃとした感情が生まれる。なんなんだ…ちくしょー…という感情…
youtu.be(いやー、何度観ても最高ですね。スパイダーマンに憧れて、結局、ヴィランとなった…えーと…名前何だったかな)
「僕らは、生きるためなら悪魔にだってすがりつく」
という挑発的なタイトルの記事ですが、
もちろん、VIKTORIA MODESTAが悪魔だって言ってるわけじゃないです。
あなたにとって“悪魔”みたいなモノでも、誰かにとっては“正義のヒーロー”であることは、当然あり得るわけです。(善悪やキリストとイスラムの問題と同じことで、解釈次第、立場次第です)
生きるために信じるしかなかったモノが、結局、社会にとって“悪”だったときの切なさ。
何かを信じて、感動しているときの“あの純粋な感覚”を知っているからこそ、「ああ、もう、なんでなんだよ…ちくしょー…」って、胸が苦しくなる。けど、だけど、僕はその切なさがたまらなく好きだったりもします。
(なんとなーく、子どもの頃に大好きだった『封神演義』の聞仲のせいかなーとか思いつつ。時代は周に変わり始めているのに、最後まで殷にこだわり続けた聞仲様…)
つい先日、『吉増剛造展』に行ってきまして、
で、まぁ、だいたいこんな感じなんだけど、
詩というか、文字や言葉に対して、ある程度の美しさを感じてはいるけれど、
声というか、音というか、吉増剛造さんの作品に対して、僕は深い部分で感動しなかったし、よくわからないという本音が漏れるのだけど、
吉増剛造さんは吉増剛造さんにとっての“感動”があるわけで、それはきっと根本的に、何かにすがりつく感覚と同じなのかもしれないと思うと、「ああ…、きっと僕が『僕のヒーローアカデミア』で感動している感覚と同じかもしれない」って思えて、なんというか、共感できるんですよ。これは僕が勝手に作った物語だから、「いや、同じじゃないだろ」って言われるかもしれないけど、少なくとも勝手に共感して興味を持つことができているので、これは僕の強いところだと思ってる。
義足も
『僕のヒーローアカデミア』も
VIKTORIA MODESTAも
聞仲も
吉増剛造も、
すべて同じ次元で語ることができる。
と、思うんだけど、
この理論って飛躍しすぎた電波な理論になってたりするのかな…
って、とある事件をきっかけに不安になったりもするのでした…
クレヨンしんちゃん好きの風俗嬢と出会った話
「感動とは何か?」と考えると、
「(現実はこうだけど)ああだったらいいのにな、こうだったらいいのにな」というような”すがりつきたいモノ”(希望や憧れ)と出会った瞬間である、という結論に至った。
今のところ。
この間、新宿の小さなbarで、風俗嬢と出会った。
20代後半(と思われる)その女性は、the夜の女っぽい雰囲気の気の強そうな美人で、だけど、話してみると、笑顔が無邪気で可愛らしい方だった。大阪でずっと同じような仕事をしていたと語るその言葉には時々関西弁がまじる。東京に来て、1年経つという。
そして、クレヨンしんちゃんが好きなんだ、と言っていた。
休みの日はほとんど外出することもなく、家で映画やドラマを観ていて、クレヨンしんちゃんのアニメが好きで、暇だからすべて観終わっちゃった、と話す。
そして、映画のクレヨンしんちゃんは好きじゃない、と言っていた。
アニメのクレヨンしんちゃんで好きなストーリーはありますか?と聞くと、どれもこれも日常的なふつうのなんてことない野原家のストーリーだった。
一方、映画のクレヨンしんちゃんは観れば涙腺崩壊の感動超大作ばかりだ。それは、時には、地球の平和すらも背負って奮闘するしんちゃんの家族愛の物語。
なんというか、
ここで偏見まみれの妄想をすると、
彼女にとってのすがりつきたいモノっていうのは、なんてことない家族の日常なのかもしれないなあって。
もしかしたら家庭環境に何かしらの問題があって(イメージだけど風俗の人ってそういう人多そう)、それでずっとここまで生きてきて、家族が育むふつうの関係性が彼女にとっては希望や憧れなのかもしれないなーって思った。
部屋でひとりでクレヨンしんちゃんを観ながらあの"感動"に浸っている彼女を想像すると、どうしようもなくキュンキュンとしちゃいます。それってすげー切なくて愛おしくて人間として当たり前で健気で素敵だなって思うんですよね。
だから、私は"感動"が好きなのだし、感動を軸にして生まれる"芸術"が好きなのです。
クレヨンしんちゃんという物語に対する希望や憧れは、たいてい無意識だとしても、彼女にとって生きる理由になっているのかもしれない。
希望がなくなったとき、人は絶望し、死に至る。
感動とは、生きる希望を感じることなのかもしれない。
あなたにもそんな"感動"がありますか?
血へど吐くまで走り込め。血便出るまで素振りしろ。
頑張れ、おれ。
「血へど吐くまで走り込め。血便出るまで素振りしろ。ちっ
どんな仕事をしても、どんな趣味持っても、どんな希望を持っててどんな夢があっても、それを誰かが必要としていなかったら僕は、価値がないと思います。それは30歳ぐらいのときまでに、日本一のクオリティを保っているのにも関わらず、一円も稼げなかった僕が一番感じたことであり(後略)。