浸透する美学。『SOMARTA』と『hatra』について。
誰かの美学が浸透するのってなんか好きだな。すごくいい。ワクワクする。
書体デザイナー・小林章さんの書籍『フォントのふしぎ ブランドのロゴはなぜ高そうに見えるのか?』を最近読んだ。美学を込めて開発したフォントが、時に世界中で使われている様子を写真と文章で伝えてくれていて、「ああ、こんなところにも美学があるんだ」となんだか嬉しくなった。
フォントについてはまだあまり詳しくないので、リード文程度でいちど撤退するけど、「美学の浸透」という点でもう少し文章を書こうと思っていることがひとつある。それは「ファッション」についてだ。
「これが私にとっては心地良いんだ!」というファッションが「あ、それいいね」と、別の誰かに受け入れられることがある。ココ・シャネルの『リトルブラックドレス』やクリスチャン・ディオールの『ニュールック』など、『CHANEL』や『Dior』などといったトップ・ブランドはそれを世界規模で成し遂げた。
誰かの美学が服のかたちになって、それが僕たちの前に現れて、時々だとしても「おお、こういうのが欲しかったんだ」ってその美学に共感して、そしてそれを身にまとって日常を過ごすだなんて。
だから、ファッションっておもしろいなー、素敵だなーって思うんですよ。
「道徳的、倫理的、社会の役に立つ、良識にかなう」ように生産・流通しているファッションを「エシカル・ファッション」と呼んで巷でブームになっているらしいのだけど、もっと広く解釈して、美学に共感してファッションを買う時代が来るといいな、と思いつつ(も、実際のところ僕はお金なくて買えてない…ごめんなさい…)。
ってことで、最近「いいじゃん!」って思ったブランドを2つ並べてみる。
①「ソマルタ(SOMARTA)」
美学がかたちになってそれが他人にとってもいいモノだったら素敵だよね!うん!とか称賛しつつも、それってそんなに簡単なことじゃない。
「ソマルタ(SOMARTA)」の『スキンシリーズ』
↑ ご愛用されているLADY GAGA様の使用感。
この『スキンシリーズ』っていうのが何か?っていうのは、上記の別記事を参照してほしいのだけど、「第二の皮膚」というファッション界のトレンド(?)があって、それに対する答えとして『スキンシリーズ』があって、高度な技術だったり身体が美しく魅せられたりっていうことなんだけど…「これを街中で着るのはちょっとなー…」って僕は思っちゃって(僕が女性であると仮定して)。
美学もあって、技術もあって、それでも「浸透するかどうか」は別問題だと思うんですよ。ファッションでいえば、服だから着れないといけないんだけど、でも、デザイナーさんの美学に対して社会的な美学は違う方向に向いている場合がある。
だから、どうにかして美学を着れるようにしないといけないんけど…
これとか。
これとか。
あるいは、これとか。
…おお!着れる!いいじゃん!(僕が女性であると仮定して)
ってテンション上がっちゃいました。かわいい…!
むしろ、上2つのタイツなんかもう可愛すぎて誰かにプレゼントしt(略)
美学ってなんかこう「大きく膨らんでるイメージ」が僕の頭ん中にあって、それをこうギュッと濃縮して出すことができたときの破壊力って凄まじいんだと思う。
例えるなら、漫画『NARUTO』の螺旋丸みたいな。
そんな感じで、MENSはなさそうだけど、かっこいいので応援してるブランドです。
デザイナーは廣川玉枝さん
GAGA様が『スキンシリーズ』を使用しているPV『G.U.Y. - An ARTPOP Film』
②「ハトラ(hatra)」matome.naver.jp
「パーカー萌」あるいはパーカーに対する美意識、「パーカーってかっこいい!」という意識は確実に僕の中にあって。パーカーを目深まで被ってポケットに手を突っ込んで、夜の渋谷をフラフラとあてもなく徘徊したい!っていう願望は確実にあるんですよ!!!それはたぶんどこか中2病的でアニメや漫画の影響が大きいんだと思うのだけど。
アニメキャラでいえば…
パッと思い付くとこだと、この方。=漫画『封神演義』の太上老君。
あと、この人とか。
ゲーム・アニメ『GOD EATER』のソーマ。
ソーマのファッションを見て、「これかっこいい!」と思って、当時黄色のシャツとそれ用のネクタイと、ダボダボズボンを持ってたので、買っちゃいましたもん、青いパーカー。まあ、ふつうのパーカーだと、ビシっ!とならないんですっげーダサくなるんですが。「あら、頭のかたち綺麗ですね」ってぐらいべったりとなるんでむちゃくちゃダサいんですが!
とりあえず、この「パーカー被りたい願望」ってなんなんだ?っていうのはこの際置いといて。
少なくとも、パーカーに対する美意識(美学とまではいかないけど)はずっと持っていて、だからこそ、その美意識を体現するような「ハトラ」のパーカーデザインを見たときはどうしようもなく「おお!これだ!やべえ!」ってテンションあがるわけです。
こういう展開もあるみたいなので、いいぞもっとやれ。
デザイナーは長見佳祐さん
『読書について』を読んで、東田直樹さんを思い出した。
「読書は、僕にとって祈りに近い」
なんてことを感じたことがあった。
自分にとって心地良い言葉と出会うための行為。
心地よさというのは、救いであり、救いをもたらすモノは神である。
つまり、心地よい言葉は神みたいなもんで、神みたいなもんでっていうか、昔の人たちはそう呼んでいたんじゃないかっていう予想なんだけど。
『読書について』を書いたショーペン・ハウエルが言うところの思索って、自分にとって心地良いと感じる理屈を考えることなんだと思った。僕はその理屈を美学と呼びたい。何を心地良いと感じるか?というのは、何を美しいと思うか?と同じ疑問であり、美学を追求することこそが、思索なのだろうと。
例えば、僕は「人生は楽しい」という名の書籍に共感できない。いかに人生が楽しいかということを数章に分けて語ったところで、僕にとっては「人生は楽しい」というよりは「人生は楽しくない」という実感の方が強いので、どんなに正論だろうと承諾できない。正論よりも感情の方がよっぽどこの世界の真実だ。だから、「人生は楽しくない」という名の書籍があったら、僕はその書籍名にも内容にも共感し、心地よさを感じるに違いない。
現時点で、ヒトはそれぞれこの美学を追求するのがいいんじゃないか?と思っているし、そういう人のことを僕はカッコいいと感じている。
『読書について』で、素材と形式の話がある。その話を読んだとき、真っ先に思い出したのは、詩人の東田直樹さんのこと。その「新幹線の雨」という詩。素材は「何を」語るかであり、形式は「どう語るか」ということ。
「雨」という「素材」を、あなたは「どう語る」ことができるか?
「横殴りの雨」という表現がありますが、横一線に流れる雨粒が見られるのは、新幹線に乗った時だけではないでしょうか。
それだけ早いスピードで移動しているからだと理屈ではわかります。けれども、僕にはこの雨が、特別なメッセージを伝えてくれているような気がしてならないのです。
雨は普通、空から地面に向けて落ちていきます。その時々で強さは違いますが、一定のリズムを持っていると思います。
僕は雨音が、時を刻んでくれていることに気づきます。そして、知らぬ間に数を数え始めるのです。体の中を突き抜けるようなリズムが耳にこだまします。
しかし、新幹線の窓を打ちつける雨に、リズムはありません。まるで、人の涙みたいに、ぽろぽろとこぼれ落ちたり、さめざめと泣いたりするのです。
ひと粒ひと粒が、自分の意思で窓に張り付いてきたかのような動きで、僕の目を釘づけにします。
ただの雨粒なのに、それぞれが違う速さで流れ出したとたん、神様から命を与えられた存在に変るのです。
感動とは、自分が知らなかった世界を見せてもらえた時、感じるものなのでしょう。
泣いている人を励ますように、僕は新幹線の窓を見つめます。
雨は、まだやみそうにありません。
新幹線の窓は、濡れた瞳に似ています。
やがて、雲の切れ目から、太陽の光が差し込むと、外の景色がくっきりと現れました。
新幹線の窓にくっついていた雨は、もう全て消え去ってしまいました。
雨粒は、空に帰って行ったのでしょう。
新幹線の窓から見える空は、次々に形を変えて、心をなぐさめてくれます。
涙の訳をいつか教えてもらいたいと、僕は願っているのです。「新幹線の雨」by東田直樹
「雨」という「素材」を、僕は「どう語る」ことができるか?
東田直樹さんにとっての「雨」はとても美しい。
東田さんが見ている世界は、こんなにも豊かで切なくて美しいのかとため息が出る。
「形式」でモノを語るっていうのは、きっとこういうことなんだ。こういうことなんだって断定しちゃうと語弊があるけど、つまり、あるモノを通じて、美学を語るということであり、それがその人の深いところから生まれた言葉であればあるほど、その人独自の美意識が反映された他に類をみない独特な視点や言い回しになる。
実は今ちょっと嘘をついたんだけど、「形式」で語る場合であっても、美学を語る必要はない。その必要はないんだけど、僕にとってはそっちの方がカッコいいんだよねっていう話。美学は人それぞれ違うから、すべての人間が、例えば「雨」について自分にとって心地良い言葉で表現できるようになったら、それはとてもとても素敵な世界なんじゃないか?って信じてるわけで。
東田直樹さんはきっと、自分にとっての心地良い言葉を探している。
どうしたって他人と違わざるを得ない自閉症という世界を生きていて、そうじゃない僕たちがせっせと吐き出す言葉に心地良さを感じることもなくて、日常的に自分は他の人と違うということを痛感し、時には絶望し、それでも死ぬわけにいかないからたった独りで自分が「心地良い」と感じる理屈を探し求めてきたんだと思う。
「彼ら」は、どこか遠くまで行って、そこで何かを見つけてくる。その何かを持って帰ってきてくれて、僕らにも見えるように努力をしてくれて、それが僕たちにとっても美しいモノだったとき、その奇跡。その奇跡に挑む存在を、「彼ら」を、芸術家と僕は呼ぶ。
僕がもしも遠くに行きたいと願っても、きっと本を読むことでしかたどり着けない。
だから、僕は本を読み、自分の感情の輪郭を確かめながら、美学を磨く。
それはきっと、誰かを魅了するほどの美しさになると思うし、時にその鋭さが誰かを傷つけるかもしれない。
※追記。後日、本気モードでまとめてみた記事。↓
parisったので。
夏休みでパリ旅行。
ええところでした。
パリで出会ってテンションあがった美術作品3選。
①ジャクソンポロック
これはもうどこいっても大好き。王道。
②ヴェルサイユ宮殿に恒常設置されているアニッシュ・カプーア『DESCENSION』。
地中に埋められた渦巻き。
その流れは速く、かなり暴力的な作品。
水が吸い込まれるときの「ゴポゴポ」という音と地鳴りのような「ゴゴゴッ…」という音が鳴り、作品によって周辺の大地が実際に揺れている。
柵に触るとまじで揺れが伝わってきて、怖い。恐怖感ある。
それでも、水の流れってすごくきれいで、どんなに観ていても観飽きない。
この作品と出会ったとき、豊島にある内藤礼の『母型』を思い出した。
その他、アニッシュ・カプーアの作品。
上にある鏡の作品もそれ。
③フォンダシオン ルイ・ヴィトンにあるchristian marclayの『crossfire』。
写真撮ってないので、他から拝借。
(Christian Marclay - Exhibition | DHC/ART | EN)
暗室の4面にでかいスクリーンを設置し、各映画に登場する銃撃シーンをえんえんと流すっていう作品。最高です。戦争映画の銃撃シーンにテンションあがっちゃう人間は、もれなく興奮すると思います。一応、ストーリー仕立て(?)で、銃を取り出し、銃弾を充填し、撃鉄を鳴らし、発砲(後の銃撃戦)という流れがあって、いい感じの手に汗握る緊張感アリ。きっと批評性とかあると思うんだけど、とりあえず感覚的に好きな作品。映像の連続再生とか、わりとMADっぽくて、銃撃のタイミングをずらしてリズムつくってるので聴いてて心地良い。
旅行で初めてカメラ持ってたのでパシャパシャすんの楽しかった。
自分が観て感じた光景の細かいところを上手く再現するのって難しいなと思う。
同時に、カメラって自分の感覚を正確に伝えようとしてああだこうだとこだわることの難しさとオモシロさを体感できるいい道具だと思った。
そんな感じで、以上です。
ダンスってかっこいいな。
居間にある付けっぱなしのテレビから、聴き覚えのある曲が流れてきた。
それは、ダンサー・Koharu Sugawaraがオリジナルダンスで使っている曲『Rather Be by Clean Bandit』で、とても素敵な曲。「もしかして…!(Koharu Sugawaraが踊ってる!?)」と思って、居間に向かうと、テレビでは27時間テレビのワンコーナーとしてチビッ子ダンスバトルをやっていた。Koharu Sugawaraが愛した曲をバックにダンスを踊るのは、h!nataというチビッ子ダンサー。たぶんだけど、Koharu Sugawaraからの影響があるであろうダンス(上半身の軸に力が込められていて、その力強さが波のように手足へと流れる感じ?)で、「お、かっこいい」と感じたから上手いんだと思う。
27時間テレビ自体はまじでむちゃくちゃ糞なんだけど、どれだけ糞かって言うと、h!nataの対戦相手はどじょうすくいのダンスを踊る子どもたちで、番組の空気としては「どじょうすくい(笑)」で、審査員の判定がある前に、ナイナイの岡村がどじょうすくいの子どもたちに向かって「負けたけど、どう?」って質問をするぐらい糞なんだけど、おいおいふざけんなよ少なくとも努力をしてきた子どもたちを番組全体で晒し上げるような空気を作るとかどんだけ腐ってんだとか思ったけど。
それでも、こんだけ糞みたいな世界だけど、それでも、それでも、ひとつ希望があったのは、審査員・仲宗根梨乃がコメントを求められて「(h!nataちゃんに対して)あなたのエモーションは伝わった」というような感想を二言、三言伝えるシーンがあって、その伝え方が真剣な表情と情熱のこもった声色でしかもちょっと早口でそれがすごくかっこよかった。それはまるで「私たちはこんなぐちゃぐちゃとした糞みたいな場所で出会ったけど、それでもこれだけはどうにかして絶対にあなたに伝えたい」という、ひとりのダンサーとして未来あるダンサーに対する真剣で本物のエールだったと思うから。
どじょうっ子たちも頑張ってほしいなー。
チームラボは正義だ。
誰かの作品を観て、涙がとまらなくなるのは2回目だった。というより、その1回目も2回目も、同じ作家さんなのだけど。
やっと行けました。
会期延長だったのでピーク時よりもたぶん空いてました。
泣ける=良い!素晴らしい!という単純な図式じゃないことは百も承知なのだけど、それでも、どうしても、「涙がとまらなくなる」という状況には、すごく特別なことがあるんだと僕はわりと真面目に信じている。少なくとも、そのときにこみ上げてきた嬉しさや悲しさ、悔しさなんかっていう感情が嘘っぱちだったなんて思いたくない。
チームラボさんの作品はどれもこれも素晴らしい。のですが、その中でも、思わず泣き出すほどテンション上がっちゃった作品が 『追われるカラス、追うカラスも追われるカラス、そして分割された視点 - Light in Dark』でした。
「へい!どうしてわざわざ高いお金払ってまで芸術作品を観にいくんだい?」と聞かれたら、「こういう作品に出会いたいからだよ!」と自信を持って笑顔で答えたくなるような、脳みそをスパコーーーーン!!!とぶっ飛ばしてくれるような、それはそれは迫力のある映像と音楽の作品。
youtubeの動画じゃそのスケール感が全然伝わらないんだけど、会場の照明が落とされた暗い場所で、自分の背丈よりも高くて両手を広げたよりも幅広い映像画面7つ(だったかな)が、Uの字に並んでいて、お客さんはその巨大な映像画面の間をふらふらと観て歩き、時には寝そべって(!)観賞する。作品の世界に入っていける!というとさすがにちょっと大げさですが、たぶん正確な単語としては「体験する」に近い。youtubeの動画は(申し訳ないけども)あくまでも「視聴」でしかないんだ!と。
会場の作品は、Uの字に並んだ映像画面の間を「カラスたち」が縦横無尽に愉しそうに飛び回る。そして、映像画面に手を伸ばしたらそのまま「カラスたち」の世界に手が届くんじゃないかと錯覚するぐらいに奥行きと立体感があった。例えば、映像のちょうど2分頃のところの「カラスが遠ざかってる」シーンによって、「映像の中に広がる無限の空間」みたいなのを体感できる。映像画面を入口にして、その先に別の世界が広がっているかのような奇妙な感覚。遠くの方で気持ち良さそうに羽ばたく鳥を眺めることが、これほどまでに心地よい感情を抱かせるものだとは思ってもみなかった。しかも、「カラス」の軌跡に花々がリズムよく咲き乱れるとかもうね素敵すぎるよ。
(http://www.team-lab.com/news/miraikan)↑実際の展示風景こんな感じ。
日常では絶対に出会えないであろう、そういう空間に出会えること。
それは、例えば、豊島美術館で出会った「こんな美しい作品を、空間を、時間を、僕と同じ人間が作ったのか…!」というこの上ない喜びと驚きと感動。あるいは、もっと単純に「なんじゃこりゃスッゲー――!!!!」というワクワク感が全身を駆け巡るような感覚。僕がせっせと美術館やギャラリーに足を運ぶのは、1/100回あるいは1/1000回だとしても、そういう瞬間に出会えることを知っちゃったからだ。それがゲイジュツってやつだ。
つまり、「芸術」というのは「作家が自分という存在と真摯に向き合い、とことん追求し、それを他人と共有するために作品というカタチにする行為」なんだと私は信じている。「自分」と向き合うと、だんだんと「核」のようなモノ、その個人にとってすごく大切なモノに辿り着くのかなって信じているんだけど、 チームラボ、つまり代表である猪子さんという個人の、その奥深いところにある「何か」によって、「こんなにも美しいモノが生み出されたのか…!」とふと思い至り、その瞬間、ぐわーと涙が込み上げてきた(会場が暗かったので遠慮なく)。
なんというか、チームラボさんの作品は、すごく素直で、とても真面目で、純粋無垢に「美しい」。それが映像美や草木、花々の美しさにも繋がってくる。誰かの奥底にある大切なモノが、どうしようもなくむちゃくちゃに美しかったら、これほど素敵なことはないですよね。
自分でも小説を書き始めて、作品をつくるとき、自分の中にある経験や感動、知識の範囲でしかモノは作れないんだというすごく当たり前の事実に気付いた。あるいは、ストーリーからキャラクター、文体まで、自分が「コレいい!」と感じるモノの積み重ねでしか作品は生み出せない。
だからこそ、チームラボさんによって生み出された作品の「美しさ」に、「すげえええ…」ってむちゃくちゃ心が震えた。それは称賛の意味もあったけど、だいたいは憧れと嫉妬と絶望がぐちゃぐちゃと複雑に混じり合った感覚。ちょうど仕事や作品が上手くいってなくて、自信喪失した時期だったのも大きい。自分自身に対する不甲斐なさ。何してんだ俺という非力感。「美しいモノ」を想像できる感性(と知識)と、それをこの世界に再現する技術をもったチームがあって、ぜんぶひっくるめて「すげえええ…(いいなあ…かっこいいなあ…)」って。
まあ、途中でものすごいプライベートな事情を挟みましたけども、そんなん抜きにしてもチームラボさんの個展むちゃくちゃ最高です。「チームラボの作品は美しすぎる、行儀よすぎる」という批評もあったりして(アート作品には毒気があるべき論)、実際そういう傾向あるかもとか思ってたけど、むしろ「美しいは正義」だよ、と。美しすぎて泣ける展覧会。誰かにとっての「美しさ」が、自分にとっての「美しさ」であることの奇跡。かっこいい作品はやっぱり僕にとってはヒーローであり、暗いどん底から救いの手を差し伸べてくれる。頑張ろう、頑張りたいと不思議と思えるもんです。
今日から『攻殻機動隊』新シリーズ!
これ↑を観ると、やっぱり底力というか、名作としての歴史というか、『攻殻機動隊』シリーズの1作1作の破壊力がむちゃくちゃやばいなと思える。層の厚さというべきかな。こんなアニメ他にない。
ということで、
『攻殻機動隊』テレビアニメの新シリーズが今日から(TOKYO MX)スタート。
テレビシリーズ『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』と『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG』をリアルタイムで観てなかった僕としては、よだれがとまらん!ってぐらい嬉しい。やばい。楽しみ。